現代語私訳 善導大師『阿弥陀如来を観想する教えの入口』(観念法門) 第二十五節

現代語私訳 善導大師『阿弥陀如来を観想する教えの入口』(観念法門) 第二十五節




また、観無量寿経には、以下のような意味のことが述べられています。
釈尊は、韋提希夫人におっしゃいました。
韋提希夫人よ、あなたは凡夫です。心や思いは劣っており、遠くまで見ることができません。
さまざまな如来がたにはすぐれた方法(善方便)があり、あなたたちが浄土を見ることができるようにさせてくださいます。」と。
韋提希夫人は、釈尊に申し上げました。
「私はいま、み仏の力のおかげで浄土を見ました。
しかし、釈尊がお亡くなりになった後のさまざまな人々たちは、煩悩に心は濁り悪業や不善を抱えて、生老病死愛別離苦の五つの苦しみに喘ぐことでしょう。どのようにして極楽浄土を見ることができるでしょうか?」と。
釈尊は、おっしゃいました。
韋提希夫人よ、あなた、そして人々は、心を専らにして念じて、西方浄土の瑠璃でできた地面と、その地面の下のあらゆる宝石でできた幔幕、地面の上のさまざまな宝石、浄土の建物の中の荘厳等を想い描くべきです。」」と。


心を専らにして意識を集中すれば、韋提希夫人と同様に浄土を見ることができることでしょう。
観無量寿経ではこのような意味のことが説かれています。
「それぞれをとてもはっきりと観察しなさい。眼を閉じても開けても、すべて見ることができるようにしなさい。このように想い描くことを、粗い観察(粗見)と呼びます。これは自覚して想い描いている段階の観察(覚想中の見)と言えますので、粗い観察と言えます。もしも、集中した瞑想、および集中した念仏の状態を得ることができたならば、心の眼が開けて、浄土のあらゆる荘厳を見ることができます。それはとても言葉では語り尽くすことができないものです。」と。
この観無量寿経の記述も、経典による根拠です。
あらゆる凡夫は、ただ心を傾ければ、必ずみ仏と浄土を見るという意味です。理解すべきです。たとえ、み仏や浄土を見たり聞いたりする体験があったとしても、驚きあやしむ必要はありません。どうしてでしょうか。阿弥陀如来の三昧の力や他の力が加えられているので、み仏や浄土を見ることができるのです。ですので、阿弥陀如来の高度な集中力によって阿弥陀如来を見る・阿弥陀如来に出遇う縁(見仏三昧増上縁)といいます。