佐々木毅 「政治学講義」

政治学講義

政治学講義


本書で著者は、「概念」は世界と現実についての見方を構成するとする。

概念の解釈は理論と実践を媒介する不可欠の要素であり、常に議論の余地のあるものだとする。
人間は、概念やものの見方について、常に解釈し、解釈しなおす存在だとする。

さまざまな経験的認識やその蓄積は、こうしたある概念に対するなんらかの解釈に基づいた理論的枠組みとの関係で、はじめて生命を吹き込まれるので、単なる経験データの蓄積だけでなく、概念や理論を見ていくことが政治学においても重要であるとする。

そうした概念への重視の認識の上で、著者は、民主主義や制度、政党、権力などのさまざまな政治学の鍵となる言葉・概念についての、近現代に行われたさまざまな議論をわかりやすく整理している。
ある概念についての解釈を共有するということは政治についての見方を共有することにつながるとも指摘されているが、そうであればなおのこと、たしかにこのような概念の整理というのはとても大事なことだろう。

こうしたさまざまな議論の整理によって、今我々がどのような時代に生きているのか、どう国家や政党や政治について考えればいいのか、かなり見晴らしのきく地図が提示されており、何度も読んで役に立つ本なのではないかと思う。

戦後のポリアーキーの成立や、「豊かな産業社会」の一時的な実現。
しかし、市場経済の力が増し、国民経済が終焉し、国家の統制力に限界が生じたため、「豊かな産業社会」も崩壊していったこと、などの今日までの流れや、それに対するリベラリズム新保守主義の応答やその限界などを見ていると、これからどうしたものか、かなり頭を悩ませられるが、こうした知的な見晴らしの良い地図があってこそ、これからの構想もしやすくなるかもしれない。

こうした時代の中で、政治について考える際に、著者は、「政治」を、単なる私的な利益集団の多元的な競合とだけとらえるべきではないとし、公共の利益・公的なものとの関連でとらえることを主張する一方で、公共の利益ということを実体視して、多元的な諸集団の声や利益を封殺することも批判し、

政治を「自由人からなる一つの共同社会の中での公共的利益に関わる、権力を伴った(権力をめぐる)多元的主体の活動」(47頁)と定義している。

そして、公的なもの・共通の事柄の追求と、主体の自由と複数性との、双方にこだわること、この緊張関係にこそ、政治の核心はあるとする。

たしかに、長年の利益政治によって、膨大な財政赤字と政治の金銭スキャンダルと国民生活の劣化をこの二十年見続けてきた我々日本人は、政治へのシニシズムや無関心や絶望に陥る前に、もう一度公共の利益ということについて、多様性や複数性を擁護しながらも、再び真摯に考えていくことが大事なのかもしれない。

公共の利益と多元的主体のあり方の双方に視野を置き、両者の緊張の中から新しい政治の可能性を追求するところに政治の妙味はあるということ。
「公共の利益という概念によって具体的に何を考えるのか」が肝心な問題であるということ。

単なる「ここ、今」の関心から離れて、「広い心」で行動すること。
それはたしかに困難であるが、「ここ」「今」の感心を空間的・時間的広がりの中で再検討することを促し、自己批判的反省力や公平さの感覚、多様性への感覚を含んだ政治的判断力に、「公民の徳」として求められるということ。

などなどのメッセージには、共感させられた。

「従って、何をしても無駄だ」と結論付けるか、
「それにもかかわらず、政治判断のためにエネルギーを注ぐべきだ」と結論付けるか、
これらは五十歩百歩のように見えるが、政治生活の運命を決したのは小さな政治判断の累積の結果であり、小さな違いが雲泥の差を生み出し得ることを直視すべきだ、
という著者の「むすび」のメッセージは、深く考えさせられる。(294頁)

著者は、必ずしも理想的な政治参加や直接民主主義的民主制の現実性に関しては、二十世紀のさまざまな議論を踏まえた上で、かなり冷静に距離をとって眺めているようであり、末尾でも、政治判断の主体には二種類のものがあるとし、
自ら政治判断の提示者になる、専門家として政治判断についての判断を生業とする集団(政治家、政党、ジャーナリスト、官僚、研究者など)と、それらのグループの政治判断の適不適を判断する一般市民との二つを区分している。

しかし、本書は、必ずしも前者の政治判断の提示者や専門家たちのみでなく(それらの人々の力量や判断力の養成こそ喫緊であり、本書はその役にも立つとは思うが)、後者の我々一般国民にとっても、この現実を見ることにおいて、とても見晴らしのきく地図を提供してくれる本だと思う。

二十一世紀において公民としての徳や責任を自ら担おうとする人には、オススメの本だと思う。