佐々木毅 「政治学は何を考えてきたか」

政治学は何を考えてきたか

政治学は何を考えてきたか


本当に、すばらしい本だった。
目の覚める思い。

我々が生きてきた時代がいかなる時代だったのか。
今はいかなる時代なのか。
これからはどうなるのか。

そうした問いに、はじめて明晰に、目からウロコで視界が開けた気がする。
学問というのは、やっぱりすごいものだ。

本書で著者は、二十世紀に特徴的だった一国民主主義的資本主義とその政治的自律性が、グローバリゼーションによって解体されたこと、その過程およびそれをめぐる議論を、とても鮮やかに描き出している。

著者が言うには、二十世紀の民主主義は政治と経済を組み込んでいたから安定したという。
つまり、「豊かな産業社会」を前提にし、国民規模での経済を、国家が安定して統御できるというシステムにおいて、利益政治を通じた分配がなされ、政治も経済も安定していた。

しかし、そうした国家と民主政治の二人三脚は、新保守主義イデオロギーによって、さらに近年のグローバル経済の急速な拡大・成長によって、もはや解体された。

つまり、市場経済と金融体制が支配していた十九世紀に、ある意味ふたたび似てきたとも言う。

「国家」民主政治が終り、権力の拡散が始まり、国際金融市場やグローバル経済の力の前に、国家は所得格差の拡大の甘受と、大量失業の防止策の決めてなしという事態に追い込まれていった。

つまり、「安定した民主制」を支える安定した経済的条件がなくなった。
それが二十世紀末から二十一世紀初頭に、時間差はあれど、米英や日本などが置かれてきた状況だということを指摘している。

先進国の中で一番最後に、この二十世紀型体制の再検討問題に直面し、もっとも長くその対処に苦しんだのが、バブル崩壊後の日本だと著者は指摘し、バブル崩壊からの日本の辿った道もわかりやすく明晰に描き出している。

それを読みながら、「ああ、そういうことだったのか」「そうそう、そうだった!」と、思わずリアルタイムにかつて私自身が見てきたいろんな出来事や世相を鮮やかに思い出しうなずかされながら、はじめて明晰にそれらの意味がわかった気がした。

著者が言うように、バブル崩壊とその後の日本の立ち直りの遅さや処理のまずさは、個々人の力量を超えた、五十五年体制の構造的な問題、つまり「仕切られた多元主義」という五十五年体制下のシステムがまったく新たな金融市場に対処できないシステムだったことによるのだろう。
個々の人間をあまり責めることのは酷かもしれない。
しかし、橋本内閣に顕著に見られるが、中曽根内閣以後小泉政権誕生以前の歴代の自民党政権および官僚の処理の失敗失策や無為無策には、読みながら改めて暗澹たる思いがした。
今更言っても仕方ないが、もっとうまく対処できなかったのだろうか。
そうすれば、これほどの国富がみすみす無駄に喪失されることもなかったろうに。

ただ、それらは、市場の力に政府が屈服していく、最終的な苦い闘いであり、今更言っても仕方がなく、これからはその市場の力を前提にし、政府の役割が限られる中で、社会的同質性が失われていく中で、利益政治から離脱し、どうやって新たな政治を描くか、ということなのだろう。

日本よりも早く二十世紀型体制の終わりと見直しを迫られたアメリカのさまざまなイデオロギーの論戦も、これからの日本を考える際にもとても参考になると読んでいてとても興味深かった。
政府の大小よりも、「苦い薬か甘い薬か」という争点は、まさにこれからの日本の政治の課題かもしれない。

9.11後の世界への展望についても、戦争が抽象的な原理をめぐっての戦争とならぬよう、説得と対話による「世俗化」「近代化」をイスラム諸国に働きかけていくべきという議論は、とても興味深く思えた。

また、著者が、ネグリの「帝国」論をとてもわかりやすく解説した上で、ネグリの帝国論には「帝国」と政治的自主性の摩擦が十分にとらえられておらず、「資本の論理か軍事か」という構造になっていると指摘し、政治的自主決定性とグローバル資本主義の構造的な妥協・調整の観点の必要を説き、政治的統合の重要性を主張しているのには、なるほどーっと思った。

また、第六章における十九世紀の思想家・アクトンについての論文や、第七章の「二〇世紀の自由主義思想」もとても面白かった。
これからの自由主義を考える際に、とても重要な見晴らしと刺激を与えてくれるものだと思う。

「アイデアは現実的な結果を伴う」
「政治はわれわれの自由の発露である」

政治思想研究と現実政治分析の対話・交響は、本書に見られるように、我々の自己認識と、そして現実的な結果にとって、たしかに最も重要な鍵なのだと思う。