- 作者: ウィリアム・シェイクスピア,小田島雄志
- 出版社/メーカー: 白水社
- 発売日: 1983/10/01
- メディア: 新書
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コリオレイナスは、やっぱり面白い。
一般受けはしないかもしれないけれど、テーマが新しいと思う。
シェイクスピアというのは不思議な作家で、ずっと後世のテーマをどうしてあの時代に先取りできたのだろうと思うけれど、誤解を恐れずに今風な言葉で言うならば、この作品のテーマは「大衆社会における精神的貴族の悲劇」なのだと私は思う。
あるいは、この世においては、高貴な融通のきかない魂が、いかに生きていくのがむずかしいか、ということなのだと思う。
コリオレイナスはどこか屈原に似たものがある。
適当に民衆に愛想良くしていればいいものを、抜群の手柄と高潔な性格を持つコリオレイナスは、ローマの民衆に対して、不必要に傲慢な態度をとって自ら破滅する。
周囲の大人たちは、もっとうわべだけでも民衆に対して愛嬌を振舞うように言うのだけれど、コリオレイナスはある意味バカ正直で、よく言えば内外一致していて、傲慢さをかくさない。
もっと、要領よく振舞えばいいものを、と思わずにはいられないが、そこがコリオレイナスの悲劇なのだろう。
コリオレイナスはたしかに傲慢で要領が悪いけれど、べつだん傲慢という以外は何も罪はない。
それどころか、ローマのために命をかけて並外れた武勲を立てている。
しかし、そんな高潔で才能溢れるコリオレイナスを、ただ嫉妬と反感にかられてローマの民衆は引きずりおろす。
その姿は、時代を越えて大衆社会の状況を映し出しているようで、なんとも恐ろしいもがある。
この作品を貫いているのは、自分よりすぐれた人間を引きずりおろしたいという多数者の気持ちと、それに対して無防備な高貴な個人、の対立、そして前者が後者に対して圧倒的な優位を持つ、という悲劇なのだろう。
今の世には、根拠があってなんのとりえも才能もない人々を軽蔑する精神的な貴族と、根拠もなく他人をひきずりおろそうとする民衆と、そのどちらかがいるだけ、という内容のことをコリオレイナスは言い放つ。
これは、けっこう大衆社会に対する、痛烈な皮肉だと思う。
しかし、本当は、べつだんその二つがあるだけというわけでもないのだと思う。
才能のある高貴な魂の持ち主を、べつに嫉妬せずに、誉めて支える多数者のいる社会というのも、ひょっとしたらありえるかもしれない。
また、べつに大衆を軽蔑しないで、人それぞれに大変な人生と歩みがあることをよく理解し、べつだん演技ではなくて庶民を愛そうとするエリートというのも、ひょっとしたらありえるかもしれない。
もし、そうした多数者とエリートを持つことができた社会があったら、その社会はきっと幸せだろう。
その可能性をまったく見出そうとしなかった、見出せなかった所に、コリオレイナスの悲劇はあったのかもしれない。
コリオレイナスは、四大悲劇や他の劇に比べても、シェイクスピアの中で、私にとっては最も興味深いし、面白い。
それはたぶん、私だけではなくて、この作品は現代社会に生きづらさを感じている多くの人にとって、身につまされる作品なのではないかと思う。