大谷光真 「愚の力」

愚の力 (文春新書)

愚の力 (文春新書)


著者は西本願寺の御門主

平明な言葉で、わかりやすく、奥深い内容が丁寧に語られていて、とてもためになった。

印象的だったのは、「切なる生き方」という言葉だった。

無常や死の問題、有限性の問題、あるいは悪人や愚ということを、他人事のように思っていては、とても「切なる生き方」は出てこない。

それらのことが、自分自身の問題として引き受けた時に、「切なる生き方」が出てくる、ということだった。

たしかに、浄土真宗とは、念仏とは、この「切なる生き方」の道なのだと思う。

また、煩悩とは有限性に関わる問題であること、
我々は普段、自分が有限な存在であるとも、煩悩を持った存在だとも気づかないけれど、そのことを気づかせてくれるのが仏教であり、阿弥陀如来の本願念仏の道だと述べられているのは、なるほどーっと思った。

無自覚の愚者ではなく、愚であると自覚を持ち、切なる生き方を生き抜くのが念仏者の道なのだろう。
大事なことを、あらためて教えられた気がする。

巻末に収録されている、ダライラマとの対話も、去年の一月に文芸春秋に掲載された時も読んだけれど、あらためて読んで感銘を受けた。

一切衆生へと開かれた念仏の道というのは、本当にありがたいものだと改めて感じさせられた。

良い本だった。

まだ一回しか読んでないので、また繰り返し読み返してみたい。


(二回目の読後感想)

二回目読み終わった。

 一回目の時よりも、さらにしみじみ味わいが深かったと思う。
 なるほどな〜っと考えさせられた。

たぶん、御門主は、「時代の力」に対抗する力としての「愚の力」を提示しておられるのだと思う。
たしかに、「愚の力」こそが、「時代の力」に抵抗できる力かもしれない。
また「愚の力」で「時代の力」に抵抗・対抗して、別の人間や社会のあり方を提示していくのが、念仏者の務めというものなのかもしれない。

本願念仏を通して養われる有限性の自覚・愚の自覚。
また、そうした愚である自分をそのまま支えてくれる、如来の慈悲の心を思い起こすこと。
そうして、如来の慈悲の心に支えられた人こそ、一切衆生とのつながりを積極的に求め築いていくことができること。
有限性・愚・不完全さを自覚しながら、今自分にできることを積極的に行っていくのが、浄土の慈悲であること。

そういったことを、御門主は「愚の力」と言っているのだと思う。

この「愚の力」がないことには、生死への実感もなかなか見つからない、消費者マインドと人工文明ばかりの今の社会では、なかなか一切衆生とのつながりを築くことも持つこともできず、したがって生きる手応えもなかなか見つからず、今できることから何かをやっていくという力も生じにくい、あるいは生じえないのかもしれない。

ぱっと見、わかりにくいタイトルだけれど、如来の大悲を通して有限性の自覚・愚の自覚を得た個人が、進んで一切衆生とのつながりを取り戻す力のことを「愚の力」として、「時代の力」に対抗するものとして提示していることに、二回読んではじめてはっきり思い至った。
門主の並々ならぬ願いをこめた一冊なのだろう。

限りある存在であること、愚であることを自覚することと、その自覚から生じてくる歓喜と慚愧の生きる力。
それが「愚の力」「愚力(ぐぢから)」だとすれば、私は今年はこれから大いに愚力を鍛えたいと思う。
浄土門というのは、まさに愚力の宗教だとすれば、これからますます、時代の力に押しひしがれた人に必要になってくるかもしれない。
また、すべての事柄に関しても、愚力を持っていることが根底に必要になってくるかもしれない。

有限性の自覚もなく、愚の自覚もなく、一切衆生という考えもなく、あまりにも自己中心・人間中心で、それも消費者としての心理や価値観ばかりが世にはびこるとすれば、あまりにも社会も索漠としたものになってしまうだろう。

愚の力・愚力というのは、ひょっとしたら今の社会にとってとても有効かつ必要なワクチンや免疫力みたいなものなのかもしれない。