ウルリッヒ・リンス「危険な言語」

危険な言語―迫害のなかのエスペラント (1975年) (岩波新書)

危険な言語―迫害のなかのエスペラント (1975年) (岩波新書)


エスペラントは、ナチスドイツからも、スターリンソビエトからも、過酷な弾圧を受けた歴史がある。
この本は、それらの歴史、また東欧や中国や日本におけるエスペラント弾圧の歴史も、わかりやすく記述されていた。

自由と民主主義のないところでは、真っ先に狙われるのがエスペラント語ということなのかもしれない。
とすれば、エスペラント語運動というのは、その社会や国家の、自由や民主主義の程度を示すリトマス紙のようなもの、と言えるのかもしれない。

なぜ、それらの権力がエスペラントを憎んだかというと、いくつかの理由が考えられる。

ひとつには、この本の末尾でも言っていたように、国家権力の管轄や管制を離れて、そうしたコントロールを受けずに、直接個々人が諸外国の個々人とコミュニケーションをとり、多様な情報を受発信するという事態を、情報やコミュニケーションを統制したい権力者は好まないということがあるのだろう。

また、その国の価値観やマインド・コントロールや支配文化を、エスペラントが強烈に相対化する役割があり、自立・自律した思考を可能にする点も、恐れられ、弾圧を受けた理由かもしれない。

エスペラント語自体に潜む、何か体制や権力者を畏怖させ恐怖させる、そうした理念や力があるのかもしれない。

「危険な言語」を読むと、エスペラント語というのは、決して好事家の遊びごとではなくて、命をかけた、真剣な営みなのだなあというのが、ひしひしと伝わってきたし、はじめてよくわかってきた気がした。
忘れてはならぬ歴史なのだと思う。

私のようなエスペラント語初心者も、きっとナチスソビエトでは粛清されたのだろうか。
そう思うと、自由に学べる今の日本はありがたい社会だなあと思う。
だし、その自由をきちんと生かして行使し、さらに高めて、そうした貴重な自由や民主主義が決して退歩したり窒息しないように、不断の努力をしなければならぬのだろう。

エスペラント語が危険というよりは、権力というものが危険なもので、もっと言うならば、人間や社会や国家というものは、本来的には危険なものであるということなのかもしれない。
そのことを照射する役割というのも、エスペラントにはあるのかもしれない。

エスペラント語に興味がある人にも、またそうでなくても人間の歴史や自由とは何かと考える人にとっても、必読の書だと思われる。

ザレスキ・ザメンホフ 「ザメンホフ通り」

ザメンホフ通り―エスペラントとホロコースト

ザメンホフ通り―エスペラントとホロコースト


この本は、エスペラント語創始者ザメンホフのお孫さんの回想録である。

祖父のザメンホフについての話もすこし出てきて、それも面白かったのだけれど、何よりもこの方自身の数奇な人生と体験談がとても感銘深く、とても胸打たれ、面白かった。

ザレスキ・ザメンホフは、ザメンホフの孫としてワルシャワに生まれ育ち、幸福な家庭で、幼少時より世界のエスペラント大会などにも出て、とても幸福な幼少時代を過ごしたらしい。
それが、14歳の時に第二次大戦が起こったことにより、一転して筆舌に尽しがたい辛酸をなめることになる。

父や叔母たちはナチスに殺され、自身もゲットーにユダヤ人として入れられ、何度も絶体絶命の危機をかいくぐりながら、20歳の時に終戦を迎えるまでに奇跡的に生き残った。
その体験談は、そのままで映画になると思われるほど、とてもすごいものだった。

なんというか、あの時代のポーランドユダヤ人の経た体験というのは、あらためて、なんというか、あまりにも過酷過ぎるとしか言いようのないものだと思った。
そして、ナチスのあの狂気は、いったいなんだったのだろうとあらためて思う。

ザレスキは、戦後は建築学を学び、PSコンクリートの分野では世界的な権威となって、世界のあちこちに巨大な建物を建てているそうである。
北海油田のコンビナートや、なんと日本の瀬戸大橋へのアドヴァイスもしたらしい。

この本は、前半は戦時中の数奇な運命の回想、中半は戦後の仕事の話を少々、そして後半は各地のエスペランティストを訪れた時の思い出、ザメンホフや家族のこと、およびこれからの世界やエスペラントについて語ってあり、どれもとても興味深かった。

EUや国連の、膨大な翻訳の手間を省き、紙資源の浪費をやめるためにもエスペラントが大きな寄与をできるはずだとの示唆も、とても興味深かった。
エスペラントは、本当に使いやすく、生命力があり、誰でも容易に習得できる言語だと、いろんな実例を聞いていてもあらためて思う。
ハンフリー・トンキンという英米文学の研究者の「人はエスペラントに生まれている」という言葉も、なるほどーっと思った。

あと、何よりも興味深かったのは、ザレスキさんの、それほど絶望的な体験を経てきたにもかかわらず、一貫して深い人間への愛と強靭な意志を感じさせる語り口である。

特に、

「しかし、“希望”はただ受身で待っているもではなく、積極的な姿勢を必要とするものです。」(407頁)

という言葉は、なるほどーっと思った。

「希望が終る時、地獄が始まる。」というのも、そのとおりと思った。

人類の未来や相互理解や友愛については、今日、楽観的な要素よりも悲観的な要素の方が目に付きやすいかもしれない。
事実を見れば、二十世紀や、二十一世紀初頭のこの数年間の出来事だけでも、人を絶望させるに足る出来事が山のようにあった。
しかし、そうした状況にあって、なおかつ絶望せずに、希望を人が持つためには、人には希望の種が必要なのだろうと思う。
そして、希望のないところには、究極的にはみじめさと不幸しかないのだろうとも思う。

この本からは、一貫して、何かとても強い意志、強靭な意志のようなものを感じたのだけれど、読み終わって、それが「希望」への意志だったのだと、わかった。
そして、その背景にあるのは、エスペラントなのだろうということもわかった気がした。

あと、読んでて、ブラジルのボーナ・エスペロー(Bona Espero)という、孤児を集めて農園で共同作業をして自助自活の術を身につけるための団体の話が、なんだか心にとても残った。
世界のあちこちに、そうした、貴重な人たちがいるのだなあ。
大事なのは、大海の一滴だとしても、良き大海の一滴になることなのだろうと思う。

良き大海の一滴こそが、希望の種であり、人類の希望を本当に支えていくものなのだろう。
ザメンホフの始めたエスペラントは、本当に、確実な、希望の一滴一滴であり、それがどんなに力強いものであるか、この本であらためて教わった気がする。

向井孝 「アナキズムとエスペラント 山鹿泰治の生涯」



とても面白かった。

山鹿泰治は、必ずしもそんなに有名な人物ではないようで、私もこの本を読むまではほとんど知らなかったのだけれど、幸徳秋水大杉栄の頃からの最古参のアナーキストで、戦後も昭和四十五年まで生きておられたそうだ。
エスペラント語を流暢に使うことができ、最初期からのエスペランチストでもあったそうである。

この本を読んでて思ったのは、エスペラント語というのは、本当に自由に世界中に知り合いや仲間をつくる言語なんだなあということだった。
山鹿は、印刷工や電気工として生涯働いていた、ごく一介の庶民だったのだけれど、エスペラント語を通じていつも世界中から情報を得、情報を発信し、欧米や中国やフィリピンやインドに友を持っていて、自在に中国やフィリピンやインドを行き来したようだ。

山鹿を見ていると、アナキズムも、エスペラントも、本当に国際的な連帯や交流というものを可能にするし、ひとつの人格に本当にそれが生きてくるものなのだなあという気がする。

山鹿は、とても気さくな人で、家族を愛し、一介の庶民としてまじめに生きつつ、かつ心はいつも世界大の気魄を持った人だったようだ。
アナキズムというのも、山鹿の場合は、非暴力の、反戦アナキズムだったようである。
山鹿がそうした形容を好むかはよくわからないけれど、近代日本における偉大な「草莽」のひとりだったように思う。

「国土を愛する土民主義と同時に、広く世界人たる実力を養え。
方法論に固執するな。志ある所必ず方法あり。
民衆をして志あらしめよ。」(162頁)

というメッセージは、本当にかっこいいなあと思う。

山鹿は、ちなみに北一輝の家に若い時に一時期居候していたらしく、その時に北の家でお手伝いをしていたミカという女性と恋愛して結婚したらしい。
山鹿のようなアナキストと北が仲が良かったというのも面白いエピソードだと思う。

北一輝が国家改造法案大綱で、エスペラント語を学校教育に採用するように提言しているのは、どうも山鹿の影響のようである。
二二六事件が成功していれば、今頃学校でエスペラント語が教えられていたと想像してみると、なんだか面白いような気もする。

そういえば、スペイン内戦の頃のスペインでは、エスペラント語を学校教育に採用していたらしい。
人民戦線の中には、アナルキスタ・ロートというエスペラント語の外国義勇兵部隊もあったそうだ。

山鹿らも、スペインに日本から義勇兵として参加したいという旨を送ったそうなのだが、スペイン側からなにせ武器が不足しているので、人員よりも金か武器を送ってくれと言われて、仕方なく募金して寄付金を送り続けていたそうである。
日本からも、スペイン内戦に義勇兵として行こうとした人たちがいて、資金を送る人たちがいたんだということはこの本ではじめて知った。

しっかし、幸徳や大杉や北ら、周囲の人びとがことごとく非業の死を遂げていく中で、最後まで生き抜いた山鹿は、それだけでもすごいと思う。
また、戦前のあの時代の中で、これほど自由に生きた人も、あんまりいないような気がした。

とても面白い本だった。

一介の庶民には、その人生において、たいしたことはできないとしても、いかなる思想を持ち、いかなる言葉を話し使っていくのかは、その人の自由なのだと思う。
アナキズムエスペラントは単なる夢想や幻想だと笑う人もいるかもしれないが、外面はともかく内面までもその時代の支配思潮やイデオロギーに支配される必要はなく、いかなる夢を持つかはその人の自由であり、選択であり、日々の意志なのだろう。
時代に流されず、時代を飛び越えた夢や意志を持つことができるところに、人間の自由や偉大さというものはあるのかもしれない。
この本を読んでて、そんな気がした。
草莽というのは、きっと、こういう人のことなのだろう。

「国際共通語の思想 ザメンホフ論説集」

国際共通語の思想―エスペラントの創始者ザメンホフ論説集

国際共通語の思想―エスペラントの創始者ザメンホフ論説集


ザメンホフの考えや思いを知ることができて、とても面白かった。

エスペラント語は、精神的惰性と闘う新思想であること、

英語の五十倍簡単であること、

言語の壁を越えることこそ人類の平和共存の鍵であること、

などなど、読んでいて、なるほどーっと思わされた。

中立的人間言語を世界に普及させること、
すべての民族の間の友愛と正義を実現すること、
相互理解の実現、

そうした切なる願いが、エスペラントにはこめられているんだなあと読んでてあらためて痛感した。

ザメンホフの言うとおり、「言語というものは文明の主要な原動力である」とすれば、この世界の文明、人類をさらに良い方向に向わせるためには、やっぱり言語の問題に注意を払い努力することは最も大事であり、中立的基盤として、エスペラントに注目することは、二十一世紀の最重要課題のようにも思われる。

また、同書に収録されている「ホマラニスモ宣言」も、宗教に関するザメンホフの思想が明瞭に打ち出されていて、とても興味深かった。
言語とともに、宗教についても、中立的基盤を整理し、宗教の壁を乗り越えることが、人類の平和共存のためにはとても重要な作業なのだと共感した。

「この事業は不滅だ。死滅することは決してない。遅かれ早かれ目的は達成されるにちがいない」(同書40頁)

未だその事業は未だ半ばかもしれないけれど、読んでて、この言葉のとおりなのではないかと、私にも思えた。

小林司 「ザメンホフ」

ザメンホフの生きた時代背景が詳述してあって、とても面白かった。
ロシアの支配下ポーランドで、しかもユダヤ人として生まれたザメンホフにとって、
革命前夜の激動の歴史や、相次ぐポグロムユダヤ人虐殺)の頻発は、切実に自分の実存に関わることだったのだろう。

エスペラントは決して好事家がつくった楽天的な言語などではなく、
「生き残るか、殺されるかの民族差別の血みどろのルツボから絞り出されるようにして造られた国際語」(同書228頁)
だというのは、読んでてなるほどなーっと深くうなずかせられた。

エスペラントを学ぶものは、いかにエスペラントが真剣な実存をかけて、大変な歴史の中から切実な祈りとともに生まれてきたものか、その背景や由来を知っておくのも、あるいは本当にこの言語を血肉化するためには大事なことなのかもしれない。

また、この本の中で、ザメンホフエスペラントの例文集にハイネの詩を多々とりあげていることが当時の時代背景ではいかなる意味があったかをスリリングに推理してあるところも、とても興味深く説得力があった。

また、晩年のザメンホフが、ヒレル主義という宗教的中立主義を唱え、さらにそれを発展させて「人類人主義」(ホマラニスモ)という思想を深め唱えようとしていた、ということもとても興味深かった。


友愛と口にするのはたやすいが、自分の実存と生涯をかけて、本当に人類が友愛化するように努めた人は、決して多くはないと思う。
そして、その努力は、たとえ少数であっても、きわめて貴重な、不滅の輝きを人類の歴史の上に放つものだと思う。
ザメンホフは、その本当にかけがえのない貴重な人の一人であり、その最大の人だろうと、この本を読んでてあらためて思った。

エスペラントの「内在思想」(interna ideo)を知るためには、格好の一冊と思った。

ホイットマン 「草の葉」

草の葉 (上) (岩波文庫)

草の葉 (上) (岩波文庫)

「「草の葉」は、いつかはぜんぶ読んでみた方が良い。」

ずいぶん昔、まだ子どもの頃、ある人からそう言われたことがある。

ちらほらと読んだことはあったけれど、すべてを読んだことはなかった。
この前、岩波文庫版で、翻訳ではあるけれど、やっとぜんぶ通読できた。

うーん、「草の葉」は、やっぱりとても魅力的で、不思議な詩集だと思う。
混沌としていて、雑多で、それでいて明確で、何か明澄な響きがある。
それは単なる楽天性というよりも、屈折し傷ついた心の祈りでもあったのかもしれない。

アメリカ」というものが何か、アメリカ文化とは何か、と問う時に、やっぱり「草の葉」ははずことができない古典なのだと思う。
それは同時に、単にアメリカに留まらず、「近代とは何か」ということでもあるのかもしれない。

いろんな意味で、一度は、「草の葉」は読んだことが良い作品だと、私も思う。

「ウィリアム・オールド詩集 エスペラントの民の詩人」

ウィリアム・オールド詩集―エスペラントの民の詩人

ウィリアム・オールド詩集―エスペラントの民の詩人


ともかく、一度読んでみて欲しい。

まだ、こんな知らない詩があったんだなぁ。

著者のウィリアム・オールドは、イギリス・スコットランドの詩人。
しかし、その詩は英語ではなく、もっぱらエスペラント語で書かれ、発表された。

エスペラント語は、周知のとおり、19世紀にザメンホフがつくった人工的な言語。

そのエスペラントが、いかに文学に適しているか、かえって他の言葉にはない新鮮な感覚や世界を切り開くものであるかを、その作品によってオールドは遺憾なく発揮し、示しているのだと思う。

残念ながら私はまだ流暢にエスペラント語を理解することができないので、オールドの詩をエスペラントの原文で読破することはできていないが、この翻訳のおかげで、日本語によって気軽にオールドの詩の世界に触れることができた。
これをとっかかりにして、いつか原文にトライしてみたいと思う。

戦争経験と平和への思い、性、人生へのいささか醒めたシニカルな視線とあたたかなまなざしの絶妙なブレンド
オールドの文学は、何度もノーベル文学賞にノミネートされただけあって、二十世紀・二十一世紀の文学としてとても貴重な価値のあるものだと思う。

どうもこの頃いろんな詩を読んでみたがピンとこない、何かまだ知らない良い詩を読みたい、という人に、まだこんな詩があったのだと瞠目させてくれる本だと思う。

オススメの一冊。

私もいつか、poeto de la popolo Esperanta になりたいものだ。

梅棹忠夫 「エスペラント体験」

エスペラント体験 (モバード新書 (12))

エスペラント体験 (モバード新書 (12))

面白かった。

うーん、もっと早くに読めばよかった。
エスペラントについて、とても面白い視角や知見がいっぱい盛り込まれていると思う。

エスペラント語は、英語などの言語帝国主義大国主義との闘いであること、

エスペラント語は、地球運命共同体の言語、未来の文明語、
未来を先取りした言語であり、

エスペラント語を使う人は、現在の国籍と未来のエスペラントとの二重国籍とも言えること、

などなど、かなり面白い発想や主張が述べられていた。

エスペラントは言語的少数民族(日本も含めて)の救済であり、また人類全体の精神運動であるというのは、なるほどーっと思った。

著者が言うとおり、人類の「バベルの塔的状態」(正確にはバベルの塔の後の状態)の克服には、たしかにエスペラントしか本当はないのかもしれない。

著者が末尾で述べているように、そのためには、人類の理想に向って、何か少しずつ、一歩ずつでも、エスペラントを、そしてエスペラントで、やってゆくしかないのかもなぁ。

なかなか啓発的な、面白い一冊だった。


全てのレビュー

田中克彦 「エスペラント 異端の言語」

エスペラント―異端の言語 (岩波新書)

エスペラント―異端の言語 (岩波新書)


エスペラント語について、いろんな言語学者の意見や、日本における歴史などがわかりやすく書いてあった。

「言語は運命ではなく意志によって選択される」

ということや、

エスペラント語はヨーロッパ語の宝石箱」

というのは、なるほど〜っと思った。

また、山田耕筰やマックス・ミュラーエスペランティストだったというのにはかなり驚いた。
大杉栄北一輝柳田國男新渡戸稲造エロシェンコ魯迅宮沢賢治、といった人々がエスペラントを学び推進していた、といううのはわりと今日よく知られているみたいだけれど、なかなか興味深い近代史の一つの視角と思う。
ロマン・ロランエスペラント語を推奨していたそうだ。

homorismoやsennacioという発想も、なかなか興味深かった。

言語は単に外的なコミュニケーションにとどまらず、内面の解放につながること、

狭いその言語やその社会のくびきから解放する、そうした内的な、魂の解放につながる、ということに言及されていることも、共感させられた。

なかなか面白い一冊だった。
エスペラントへのとっかかりには、いい本なのかもしれない。

ただ、この本で最後に指摘されているように、実際に魅力的に使っている人や使われている現場を見て、何かイメージを持つことが、語学の学習には最も大事なことかもしれない。
その点、この本には書かれてないけれど、今日、インターネットでさまざまなエスペラントのミュージシャンの歌を、youtubeなどで気軽に見ることができるのは、そうしたイメージの形成にとても重要な役割を果たすように思われる。

「異端」であり、スリリングで魅力的な言語「エスペラント」への魅力ある誘いの一冊なのではなかろうか。

岡田克也 「政権交代」

政権交代 この国を変える

政権交代 この国を変える


岡田さんは、まじめな政治家だと思う。
本を読んでて、好感が持てた。

よく、今の政治家は私利私欲ばかりで、駄目なのばかりという批判や失望を聞くし、実際そうした政治家も多いのだろうけれど、自民党にも民主党にも共産党にも、探せばけっこうまじめな政治家もいるように思う。

まずは、そうした政治家のメッセージに耳を傾けてみるのも大切な作業だと思う。

もちろん、その個々の意見や政策への不同意や批判はあるかもしれないが、それもまずはとりあえず、いったん耳を傾けてからにすべきだろう。

というわけで、今の政治家に失望している人たちや、政権交代民主党に対して懐疑的な人にも、とりあえずこの本を読んでみることをオススメしたい。

この十五年間の政治の動きを、岡田さんの目から回想した部分もあって、なかなか面白かった。
細川政権以来、本当に日本の政治は混迷してきたし、野党も複雑な合従連衡を繰り返してきて、当時の動きは今もってよくわからない部分があるけれど、岡田さんのこの本を読んでいると、「ああ、そういえばそうだった」とか「ああ、そうだったのかー」みたいなのがあって、けっこう面白かった。

愚直に、一貫して政権交代可能な政党をつくろうと目指し続けてきた岡田さんの姿勢は、節操なく自民党に舞い戻った政治家たちよりは、はるかに節操があって好感の持てるものだとあらためて読んでて感じた。

また、この本の中で、官僚だった経験から指摘している、自民党と官僚と業界が癒着した構造の問題は、本当にそのとおりと思う。
道路・医療・温暖化対策・情報公開は、政官業の癒着構造ではどうしても前に進まないだろうし、政権交代が行われるだけで、それらの分野は劇的に変わるだろう。

政治の目標としては、同書の中では、自由と社会的公正、を掲げてある。
その社会的公正の具体的内容として四つ、
中間所得者層の厚み、実質的な機会の平等、セーフティネット、世代間の公平、
という事柄をあげている。

中間所得者層の破壊が小泉政治の特徴だった。
しかし、多くの国民は、中間所得者層に属しているわけで、格差社会があまりにも拡大することに、危惧の念を抱いている国民も多いと思う。

中間所得者層の破壊を進める自民党政治を支持し続けるのか、あるいは別の選択肢を選ぶのか。
これから、大きな岐路になるだろう。

感心したのは、岡田さんが有権者の良識や意識の高さをとても信じていることだった。
選挙区で数え切れないほど市民との対話を繰り返してきたそうで、そうした体験に基づいて、日本の民主主義の成熟と意識の高さを確信しているという。
たいしたものだと思う。

岡田さんや民主党を支持するしないにかかわらず、一読してみる価値はある本と思われる。

滝沢克己 「歎異抄と現代」

「歎異抄」と現代 (1974年)

「歎異抄」と現代 (1974年)


歎異抄の論理について、これほど明晰に書かれた本はないと思います。

とてもすばらしい本でした。

これを読んで、はじめて歎異抄のすばらしさに目が開かれた気がします。

唯円を著者が批判しているあたりは圧巻で、通常、よほどな理解がなければ、歎異抄の著者である唯円を、親鸞聖人自身との違いや不徹底さという点で批判するなどという離れ技はできないし、したとしても本人の思い込みで理屈のあまり伴わない業になると思われます。

それを、大変納得のいく、明晰な文章と展開している離れ業は、本当に舌をまきます。

歎異抄の魂は、この本を読んで、はじめて明らかになる部分もあるのではないでしょうか。

根源的決定。
そして、そこから、浄土に光を少しでも精確に映し出そうと、渾身の努力で生きていくことの勧め。

いつの時代でも、一番大切なメッセージだと思います。

梶大介 「生ききらなければ真実は見えてこない」

生ききらなければ真実はみえてこない―わがどん底歎異抄

生ききらなければ真実はみえてこない―わがどん底歎異抄


すごい本だった。

これほど、歎異抄を身読・身証した人はいないのではなかろうか。

私は今まで何を読んできたのだろう、
歎異抄を読めども読まず、なんにも読んでこなかったと、この本を読んで思い知らされた。

念仏に心を寄せる人であれば、必ず読むべき本だと思う。

著者は、山谷のドヤ街で、日雇い労働や屑拾いをしながら、山谷の人々の自立のために「いし・かわら・つぶて舎」をつくり、搾取のない仕組みのために努め、自立のための共同農場をつくった方。

梶さんの人生は、まさに「どん底」、苦難の連続だった。
そして、罪業深重の人生だった。
だが、本当に「不思議」な人との出遇いによって、歎異抄を読み、念仏を申す身となった。

その出遇いの不思議さや、梶さん自身の人生や言葉のすばらしさは、ぜひこの本を読んで多くの方に知ってもらいたい。

本当に深い深い読みを歎異抄にしておられて、何度もうならされた。

きっと、鎌倉時代の、親鸞聖人の念仏や歎異抄というのは、梶大介さんのような念仏や歎異抄だったのだと思う。
今、これほどの念仏や歎異抄を身証した人が、いったい寺院にどれだけいるのだろう。

梶さんの本を読んでいて、昨今格差社会に日本はなったとしきりに言われるけれど、それはもともとの話で、山谷や釜ヶ崎ではずっとひどい格差が厳然として存在しており、一部に押し付けられていたものが、他の地域や人々にもわが身のこととしてふりかかるようになっただけの話なのだと思った。
一億総中流というのは、もともと、山谷の存在などを無視した、神話や虚妄に過ぎないことだったのだろうと思う。

どん底」においても、どこにおいても、念仏があり、不思議がある。
そのことに、この本を読んでいると、本当に感動させられる。

きっと、人は、どのような境遇でも念仏さえあれば生きていけるし、生きねばならないのだと思う。

「生ききらないと真実は見えてこない」

本当に、貴重なメッセージに満ちた、すばらしい本だった。




「いつの時代の何処であろうと、生かされた場を生ききっていかない限り、なんにも観えては来ない。
生き切ったところでしか真実は見えて来ないのである。」
(244頁)

「弥陀の本願は即解放されたいとする大衆の悲願であり、
一つのものであって別のものではない。
 弥陀は遠くに掲げて拝むものではない。
念仏とは大衆をその宿業の一切から解放して行こうとする行である。」
(200頁)


「真理とは簡単なのである。その真理を説く釈尊の説法は難しくないのである。真理を遠いものとし、釈尊の説法を難しいとするのは、人間が人間でなくなったからである。人間が真理に立とうとしなくなったからである。
即ち、
「生かされている」
という不思議の事実を否定しきっているからである。
「生かされている」
という不思議の事実を素直に受け取ったところに安心があり、念仏が発し、無碍の一道がある。
必要なものは必要なだけちゃんと備わってくる、困っても困らない生がそこにある。いや、すべてははじめからちゃんと用意されているのである。」
(258頁)

佐々木毅 「宗教と権力の政治」


日本人には中世のヨーロッパの思想というのはなかなかわかりにくいものだけれど、本書はわかりやすくその流れを書いてあり、とても面白かった。

人間の内面も生活も支配する、強力な権威と権力だったローマ教皇の「教皇至上権」。

その教皇至上権がどのように成立したか。

また、トマス・アクィナスにより教皇至上権がある意味部分的に制限されたこと、パドヴァのマルシリウスによってさらに世俗権力の自律性が論理付けられたこと、

ルターの宗教的個人主義により、決定的に教皇至上権や教会のあり方が打撃を受け、変化したこと。

さらに、マキャヴェリが、古代やキリスト教においては長い間当然視されてきた、内面における宗教と政治の結びつきを断ち、人間の救済や倫理などの最終目的のための政治という理論を廃棄して、物理的強制力を中核に据えた理論を立てたことがいかに衝撃的だったか。

また、ボダンによる「主権」の理論が、宗教戦争の泥沼を鎮めるための、平和のための理論だったが、宗教や価値と切り離した政治の議論だったために、平和が成立すれば空疎さを抱えるものとなり、「主権」理論の空疎さを埋めるための理論が近代以降要請されるようになったこと。

などのストーリーが、あらためてなるほど〜っと思え、とても興味深かった。

往々にして西洋政治思想史を近代から説明する通史が多いけれど、近代西洋は当然中世や古代への応答として営まれているわけで、古代や中世の流れがわかってこそ、はじめて近代のマキャヴェリなどの思想の意味も意図もわかるのだろう。
本書と、その前の一巻にあたる「よみがえる古代思想」は、現代人にとって、近代や現代を問い直すためにも、参考になる良い本なのではないかと思う。

現代も、ある意味、宗教戦争とよく似たような、理念戦争の危険がともすればある。
一方で、宗教や価値と切り離した、主権や政治の空疎さも抱えている。

そうしたことを考えれば、宗教と権力が結びつき、あるいはその結びつきを断とうとして格闘した中世・近世の政治思想史というのは、現代人にとってある意味非常に貴重な参考物なのかもしれない。



なお、私見では、この本ではさらっとしか触れられてないけれど、宗教戦争の泥沼の中で、新旧両派による自派の闘争のための御都合主義や便宜主義や熱狂を批判し、精神の寛容や穏健さを説いたモンテーニュエラスムスらの思想は、本当は寛容や穏健な政治を支えるためにはとても重要なのではないかと思う。
マキャヴェリやボダンやポリティーク派のように、宗教への無関心や断絶を強調し、世俗政治の権力の自律性を明らかにし主張することも、ある意味各人の内面の自由や寛容をもたらすことにはなると思うが、おそらくそれだけではいささか空疎な政治や空疎な寛容にしかならず、本当に根強い寛容や穏健な政治を育むには、モンテーニュエラスムスらに学ぶことは今なお多いのではないかと思われる。

大沢正道 「人類はなぜ戦争を繰り返すのか」


いやぁ〜、面白かった。

まさか、こんなに読み甲斐のある一冊とは思わなかった。

著者は、戦争についての長い人類の歴史を簡潔にまとめながら、第二次大戦後にともすれば盛んになった戦争への過度に倫理的な判断の持こみや否定を批判し、とても面白い提起をこの本で試みている。

著者が言うには、戦争とは一万年の人類とともにある文明の制度であり、国家間の紛争解決の最終手段であり、しばしば新しい秩序の生みの親となるという。

そして、古代における帝国戦争、中世におけるゲーム感覚の封建戦争、16世紀以降の植民地戦争、アメリカ独立戦争フランス革命以降の国民戦争、第一次大戦以後の全体戦争について、具体的な事例に即しながら振り返り、その意義や問題点を語っている。
しばしばその指摘や着眼点はとても非凡で、それをさらっと簡潔に書いているからすごいと思う。

著者が言うには、十字軍や植民地戦争においては、しばしば「理念戦争」の様相が見られたが、それが戦争を必要以上に残虐にし、かつ長期化させてきたという。

さらに、第一次大戦や第二次大戦は「理念戦争」になってしまったがために、かくも悲惨なものになったと指摘する。

戦争を善悪で語り論じることがいかに危険か、無用な戦争の長期化や悲惨さを招くかを事例に即しながら語る著者の意見は、極めて傾聴に値すると思う。

また、16世紀以降の欧米による植民地戦争がいかに非白人にとって残酷で非道なものだったか、それをはねかえしたマクタン島のラプ・ラプや、日露戦争大東亜戦争の日本が、いかに大きな意義があったかを指摘していることも、とても興味深かった。

最終的に著者が主張しているのは、当面降りかかる火の粉を払う軍事力を持つことと、一万年に及ぶ戦争の歴史に学んで「戦争のない」世界などという夢をきっぱり捨て、「戦争と共存する世界」をふたたび模索すること、の二つである。
なんとも暗澹たる気持ちになるが、たしかにそれが一番戦争の災厄を最小限にとどめるために大事な心構えかもしれない。

著者は、石川三四郎についての著作もあり、アナキズムの造詣の深い人物。
決して凡百の軍事マニアや戦争オタクや右派の主張とは違う、冷静に客観的にイデオロギーにこだわらずに人類の戦争の歴史を眺めた深みある著述だと思う。

戦争と平和について考える多くの人に読んでもらいたい一冊と思う。

古代ギリシア入門

古代ギリシア入門 (「知」のビジュアル百科)

古代ギリシア入門 (「知」のビジュアル百科)

大英博物館所蔵のいろんな品々や遺跡の写真により、わかりやすく古代ギリシャ人の生活が再現されていて、面白かった。

案外と、古代ギリシャ人は現代人と変わらぬ、いやそれ以上の、人間らしい楽しい遊びや生活を享受していたのかもしれないと、読んでいて思わされた。

デルポイに置かれていたという世界のへその石の写真は興味深かった。

佐々木毅 「政治の精神」

政治の精神 (岩波新書)

政治の精神 (岩波新書)


とても面白かった。

戦後の日本が、民主主義的な責任意識が起こらず、政治的思考の涵養もできず、政治的統合の機能不全が起こっているという痛切な自覚に立った上で、その処方箋の根底となる精神のありかを古典を参照しながら探っているこの本は、現代日本の心ある人にぜひ一度は読んで欲しい一冊。

著者が言うには、政治とは集団全体の決定と実行をめぐる活動であり、その活動の方向づけをするのが「政治的統合」であるという。
日本においては、1930年代、そして今日、その政治的統合の衰退と危機が起こっているとする。

著者は、その政治的統合を担う精神のあり方を問い、

当該集団の運命について自分が最終的に責任を負っているという感覚の重要性、

「何をどう実現するか?」「そのために何が必要か?」と問う精神の重要性、

現実を「可能性の束」として把握し、「実現できること」をめぐってリソースを冷静に問い把握し、
単に「実現していること」と「実現すべきこと」の両極端に走るのではなく、何が現実かを見極め、この現実から実現できることを見つけ方向付け育む精神を、

政治の精神として提示する。

著者は、それらの議論を展開するにあたり、丸山真男ヴェーバープラトン福沢諭吉トクヴィルらの言葉を参照しながら述べているが、あらためてそれら古典の人々の思索の深さと新鮮さにも、この本を読んでいると啓発され興味を喚起された。

特に、トクヴィルの議論は、19世紀のものなのに、あたかも今の日本を指摘しているように新鮮で面白かった。
「境遇の平等化」が進む中で、「個人主義」と「穏健な専制」が蔓延し、そこからいかにして突破するかというトクヴィルの提起し、かつ著者があらためて提起している課題は、今の日本にとってとても重要なものと思われる。

また本書に引用されているヴェーバーの、

「修練によって生の現実を直視する目をもつこと、生の現実に耐え、これに内面的に打ち克つ能力をもつこと」

という言葉は、本当に深いことばと思う。

さらに、著者は、シュンペーターの議論を参照しながら、今日の民主主義が一般国民が直接統治するものではなく、複数の政治的指導者が競争的にリーダーシップを発揮する、競争的闘争と選択の民主主主義であり、国民が指導者を選択するところに現代の民主主義の特質およびあるべき姿があると述べているのは、基本的にはよくわかるし、異論はない。
そのうえで、著者が「政党政治の精神」を提起し、政党経営や政権公約の重要性を説いていることも、とても重要な提起とあらためて思う。

ただ、あえて言えば、政党政治の精神の涵養と同時に、自治体レベルでの直接参加や組合・相互銀行などのアナキズム的な精神もこれからの日本には大事と思うが、それはこの本には述べられていない。
おそらく著者の関心外のことなのだろう。

二十一世紀型の社会をいかに建設するか、というテーマを、政党政治を通じて、政治家や国民がいかに真摯に問い、自ら政治的思考を鍛えながら行っていくか、それらは著者が言うように、もはや待ったなしの最重要の事柄かもしれない。

良い一冊だった。

盤珪禅師逸話選

盤珪禅師逸話選

盤珪禅師逸話選

現代語訳で、盤珪禅師のいろんなエピソードや法話が載っているので、盤珪禅師に触れるにはとても良いわかりやすい一冊と思います。

ただ、法話などは、岩波文庫の原文の方が味わい深い気がする場合もあります。

でも、現代人にとって、現代語で盤珪禅師を知るきっかけになるには、とてもありがたい一冊ではないかと思います。

ちょっと驚いたのは、大石内蔵助が一時期盤珪禅師のもとで禅の修業をし、不生禅をある程度は会得していたというエピソード。
あんまり大石を論じる中で聞かない気がするけれど、大石のあのすごさの背景がもしそうだとすれば、納得のいく気がして、私にとってはとても面白いエピソードでした。

坂野潤治 「大日本帝国の民主主義」

坂野先生の歴史観が、わかりやすく提示されてあり、あらためてなるほど〜と思いながら読んだ。

坂野先生が言うには、戦前の日本も多くの時期において象徴天皇制が提示され、実践されてきたのであり、民主主義は何も戦後に始まったものではなく明治からあった、とのことである。

明治十四年の福沢諭吉らが提案した交詢社私擬憲法案は、内容的に戦後の憲法とほとんど変わらなかった。

井上毅大日本帝国憲法は、福沢の交詢社憲法案を換骨奪胎し、福沢は政権交代可能で国会に責任を負う政党内閣による統治を構想していたのに対し、井上毅はそこは骨抜きにして天皇に責任を負い天皇に各閣僚が直結する大日本帝国憲法をつくった。

しかし、伊藤博文井上毅憲法を実際に運用するにあたっては内閣を重視する解釈を出し、その伊藤の解釈を根拠にさらに解釈を進めて事実上の政党内閣・議会政治を根拠づけたのが美濃部達吉天皇機関説で、美濃部説はいわば解釈改憲だったという。

また、日中戦争頃までは、日本には言論の自由もわりとあったし、選挙も行われ、いわば議会制民主主義が存在していた。
それが日中戦争が激化した南京陥落あたりで終ってしまった。

という話だった。

なるほどな〜っと思う。

今更言っても仕方がないが、明治十四年の時点で、福沢諭吉らの交詢社私擬憲法案が通っていれば、国会に責任を負う内閣が軍や外交も掌握し、政権交代可能な政党政治も早期に確立して、その後の日本の破局や悲劇はだいぶ回避できたかもしれない。

その他にも、なぜ日本になかなか二大政党制が根付かないか、とか、なぜ象徴天皇制の先にまでいかないのか、とか、もし1941年の四月の選挙が、一年延期されずにいれば、など面白い提起がいろいろされていた。

軽く、数時間で読める本なので、多くの人にも試しに読んで欲しい面白い本と思う。

秋山香乃 「群雲に舞う鷹」

群雲に舞う鷹

群雲に舞う鷹

とても面白かった。

日露戦争の時に、第二軍を率いた奥保鞏将軍が主人公の歴史小説
旧幕軍の小倉藩出身というハンディを背負いながら、己の卓越した実力によって陸軍大将・元帥にまで成った奥保鞏のことが、実に深みのある筆致で描かれていて、本当にいい作品だった。

奥保鞏は、本当に立派な人物だったのだと思う。
男ならば、このようにありたいものだと思った。

にしても、日露戦争の時の総司令部の愚かさと、その誤った情勢判断や命令のために苦しむ現場の奥保鞏乃木希典ら現場の将軍の苦悩や努力というのは、読んでいてなんとも言えぬ気がした。
よく明治の日本は賢く、昭和の日本は魔法にかかったように愚かになった、みたいなことが言われるけれど、べつに大本営が急に愚かになったわけでもなく、明治の時も総司令部はしばしば愚劣だったのを、奥や乃木らの超人的な刻苦によってなんとか辛勝したというのが明治というものだったのかもしれない。

南山の戦、得利寺の戦、遼陽会戦、奉天会戦など、どれも奥がいなければ、日本はとても勝ちを得ることはできず、日本はひょっとしたら破滅的な事態に陥っていたかもしれない。
奥や、第二軍の将兵の苦難や苦悩を、後世の我々も忘れない方がいいのかもしれない。

良い作品だった。
最近読んだ歴史小説の中では、最高の作品だったと思う。

盤珪禅師語録

盤珪禅師語録 (岩波文庫 青 313-1)

盤珪禅師語録 (岩波文庫 青 313-1)

盤珪禅師のエピソードや対話が収録されていて、とっても面白いです。

江戸時代のことばなのでちょっと読みづらいところもあるかもしれませんが、大体読めばなんとかわかると思います。

子をなくした親や親をなくした人々に対する盤珪法話には、本当に胸を打たれました。
この語録は、日本仏教の中でも特筆に価するすばらしい内容と思います。

正直、自分でもわかっていないチンプンカンプンなことを言うのが今も昔も日本の禅宗の大半かもしれませんが、盤珪はきわめてわかりやすい平明なことばで教えを説き続けた、稀有な本物と思います。

これほどの内容のものが、わずか七百円ぐらいで手に入れることができるとは、岩波文庫は本当にありがたいです。

松本零士 「ザ・コックピット」

ザ・コクピット (1) (小学館文庫)

ザ・コクピット (1) (小学館文庫)


松本零士の「ザ・コクピット」は、もう十数年前にアニメで見たことがあった。

ずっと気になってたので、最近漫画を全巻読んだ。
とてもおもしろかった。

漫画が連載されていたのは、私がちょうど生まれた頃だったようだ。
なんだか、読んだことがないはずなのに、なつかしいような気のする話が多々あった。

単純な戦争反対でもなく、単純な戦争賛美でもない。

戦争のかなしさやむなしさを十分に描きながら、戦場におけるロマンも十二分に描いてある。

一言でいえば、「瘦我慢」の世界だと思う。

平和な世の中になっても、この鉄の信念や瘦我慢は、人たるもの、忘れない方がいいのではないか。
読み終わったあと、そんな気がした。

一方で、戦場で無念に散った人たちの思いも忘れてはなるまい。

武士道や騎士道が、もし第二次大戦にもかろうじてあったならば。
いや、きっとこの漫画に描かれるように、時にはあったのかもしれない。
そんな気持ちにさせられる。

この漫画に描かれるような武士道や騎士道の精神で戦場で燃焼し尽くしたい、と思うのは、やっぱり後世の人間のたわごとなんだろう。
もはや、こうした瘦我慢や武士道・騎士道の世界は、今の戦場にはまったくないのかもしれない。

いろんなことを考えさせられる、漫画の名著の一つだと思う。

私は特に、戦場交響曲の砂津川良一の話が心にのこった。

鈴木大拙 「盤珪の不生禅」

「まず今日の上にて、御手前の上を極めさせられ」

盤珪について、鈴木大拙が解説した本。
盤珪のいろんな言葉が引用されてあり、なかなかおもしろかったです。

「生死は不生の場での生死である」

映画 「アミスタッド」

アミスタッド [DVD]

アミスタッド [DVD]

だいぶ前にテレビで見たのだけれど、時折ふと思い出す作品。
1839年に起きたアミスタッド号事件という歴史上の事件を描いている。

アミスタッド号は、スペイン船籍の奴隷船で、積荷として積まれていた黒人奴隷が反乱を起こし、自分たちを虐待していたスペイン人たちを倒して船をのっとる。

その船は、アメリカの海軍に拿捕されるが、スペイン政府は船と奴隷の返還を要求。
アメリカ政府も当初はそれに応じようとするが、アメリカ国内の奴隷反対の人々が被告の支援と弁護を買って出る。

しかし、なにせ被告の黒人たちの言葉がわからないので、弁護も困難を極めたが、港で粘り強く言葉のわかる人を探したところ、奇跡的にその言語を理解する人を見つけ、やっと被告と弁護団が意思の疎通ができるようになる。

裁判は長い厳しい闘いだったが、最高裁で元大統領のクィンシー・アダムズが弁護人を引き受け、ついにスペインの要求を拒否し、被告たちの正当防衛が認める判決が出る。

作品中、アダムズが、

困った時は、先祖の魂を呼ぶ、
先祖の声を聞けばいい、

ということを述べ、建国の父の心を思い起こすことを呼びかけるシーンがあり、じーんときた。

とかく、人の世は、ともすれば大事な理念を忘れ、正義を忘れてしまいがちだが、先祖の魂に立ち返り、堂々と正義を踏むことを忘れてはならぬのだと思う。

日本も、実は明治の初頭にマリア・ルス号事件という、アミスタッド号事件に若干よく似た、清人のクーリーをペルー船籍の船の虐待から救い出した事件がある。
スピルバーグがアミスタッド号事件を映画にしたように、誰か日本でもマリア・ルス号事件を映画にしないものだろうか。

時折思い出させる、良い映画だった。