今日は、作家の高史明さんの講演を聞いた。
明日が福岡大空襲の日なので、浄土真宗の法要があり、その法要のあとに講演があった。
高史明さんは、何冊か御本も読んだことがあるし、ETV特集などで見たこともあって、いつか直接御話を聴きたいと思っていたので、今日念願かなって良かった。
もう御高齢だが、とても良い響きの声で、御話もとても考えさせる深いメッセージの御話だった。
講演のテーマは「末法五濁を生き抜く 真実の「自然(じねん)」を求めて」。
あとで思い出してのメモなので、不正確なところも多々あると思うが、大略は以下の内容だった。
現代は見かけの繁栄や明るさの背後で、どこかうつろな、仏典のことばで言えば「五濁」が進んでいるのではないか。
時代の濁り、その時代をつくっている人間の思想の濁り、欲望の濁り、人間そのものの資質の劣化の濁り、いのちが濁って見えなくなる濁り。
今回の大震災も、天災であるのと同時に、人災でもあった。
原子力発電所のこともそうだし、過去の歴史で大波が来るといけないから人が住んではいけないという石碑が立っている地域に、今は多くの家が建っており、今回の震災で壊滅した地域があった。
震災は、もう一度人間存在の根っこから人間を考え直すことを促している。
見かけの繁栄の根っこに五濁が沸騰している、その象徴が原子力の利用で、かつて朝永振一郎さんは、物理学の「自然」は、合理的・数学的思考で、抽象的にしか自然を見ることができない、ということをすでに指摘していた。
単なる科学の思考では、いのちが見えなくなってくる。
原発についても、東大などの学者が、安全だ安全だとずっと言ってきた。
科学者は罪を知らなければならぬ。
罪悪深重の人間の存在の根っこをちゃんと見つめているのか。
科学者や現代文明は、そのことを問い直さねばならないのではないか。
第二次大戦でなくなった仏様たちも、本当はそのことを願っているのではないか。
願いが受けとめられない。
そのことが、五濁であり、理性の濁りである。
サン・テグジュペリは、「星の王子さま」の中で、大人は「ものそのもの。ことそのこと」を見ずに、外側のどうでもいいことばかりを言い、見ている、と指摘した。
また、サン・テグジュペリは「人間の大地」の中で、水はいのちの糧ではなく、いのちそのものだと、九死に一生を得た体験から述べた。
いのちの手段・糧ではなく、いのちそのものだというものの見方が、現代ではとても忘れられがちになってきている。
自分の息子は12歳で自殺した。
そのことによって、自分は、人間の自分とは何なのか、そのことをこの子に教えられた。
釈尊は、自分がすでに自分自身のものではないのに、家族や財がどうして自分のものであろうか、とおっしゃられた。
自分がすでに自分のものではない。
そのことを忘れてきたのが近代。
人間の近代の文明だった。
人間の知恵の闇ということ。
そのことを、親鸞聖人は、「よしあしの文字をもしらぬひとはみな、まことのこころなりけるを、善悪の字しりがほは、おほそらごとのかたちなり。」とおっしゃられたのではないか。
アジャセを人間の典型と見て、その救われることを目指したのが親鸞聖人。
それに対して、そのような面を見ずに、人間の知恵を積み重ねていったのが、朱子学がすでにそうであったし、近代以後の文明の考え方でもあった。
底に煩悩が波うっていることを見ないと、他者が見えなくなる。
知恵の色眼鏡をかけていると、人間の生と死が見えなくなる。
死という漢字の、左側の「タ」に似た文字は、骨をあらわす記号。
右側の「ヒ」に似た文字は、その骨にぬかずいている生きている人をあらわす記号。
つまり、死というのは、骨だけでなく、その骨にぬかずき手を合わせる人がいて、はじめて死ということが、漢字ができるまでの長い時間の積み重ねの中で、人がかつて発見し、気付いていたことだった。
しかし、現代人は、骨に手を合わせることを忘れてきている。
死が見えなくなっている。
しかし、死が見えなければ、当然生も見えない。
一方、「生」という漢字は、双葉が四葉になって育っていくような、そうした形をあらわしているという。
いのちに対する、そのような、のびゆくものとしての見方も、いま忘れられているのではないか。
親鸞聖人は、指を見て、月を見ないことの愚を指摘しておられる。
ことばというものは、月を見るための月を指さす指のようなもの。
なのに、月をさす指を、月を見ずに指ばかり見るのが、人間の知恵の陥りがちなことである。
南無阿弥陀仏のお念仏は、そうではなく、阿弥陀如来の智慧そのもので、人間の知恵とは違う。
そのことを親鸞聖人はお説きになられた。
そのことが、戦争や自然災害が相ついで大変な危機の中にあった、親鸞聖人の時代やそののちの時代に人々に本当に必要とされ、受けとめられていった。
そのような時代に、人間の知恵だけではだめで、阿弥陀如来の智慧が必要だということを、今の日本も、あらためて考え直す必要があると思う。
お念仏は阿弥陀如来の智慧で、自分のものではない。
弥陀の誓願不思議に助けられて、はじめて生きる意味がはっきりする。
願いを聞き、いのちは自分のものではない、というところから、人間の知恵とは別の、深い智慧や生きる意味が開ける。
明日は福岡大空襲の日で、自分もあの時代、下関にいて、多くの空襲を見た。
炎が目に焼きついている。
また、関門海峡が機雷で沈んだ船がたくさんあって、船の墓場のようになっていた光景も目に焼きついている。
だから、自分は、平和を願う。
平和を願う人は、日々に、阿弥陀様の前に平和の願いをさしだして生きていくべきと思う。
そして、阿弥陀如来や、あの戦争でなくなった仏様たち、そしてそのほかのそうしたかたたちの、また、子どもたちの、願いを自分の願いとして生きていきたいと思う。
あとで記憶で思い出してメモしたので、不正確なところも多々あるかもしれないが、大略、以上のような御話だった。
講演の最後には、峠三吉さんの詩も朗読されていた。
とても考えさせられる、胸に響くメッセージの数々だった。
最近、高さんは「月愛三昧」という厚い本も出されているので、今度その本も読んでみたいと思う。
あと、高さんの講演のあとは、福岡大空襲を体験されたという福岡の詩人の方が、空襲の日の体験の御話をされて、そのあと自作の詩を朗読された。
これも、とても考えさせられる御話だった。