善人か悪人かどうかであるより義人であること

内村鑑三詩篇の注解を読んでいて、なるほど〜っと思うことがあった。


神に救われるのは、善人でも悪人でもなく、義人である、と。


目からウロコだった。


本当にそのとおりと思う。


親鸞聖人においても、善人であるか悪人であるかはいわばどうでもよく、正定聚であるかどうかが大事だったのだと思う。


義人であるにはキリストへの信仰が。
正定聚であるには二種深信が。


要であるというのが、長いキリスト教の歴史や、浄土教の歴史でも、根本だろう。


ヘブライ語では、義人を「ツァディク」というそうである。


世の中には、それなりに世の中をうまく立ち回って生き、特段悪いこともせず、そこそこ人に親切に生きる人というのもいる。
しかし、そういう人は、善人であっても、ツァディクであるとは限らない気がする。


内村鑑三は、義人の定義を、神の戒めを守り神の御心を行う人、と述べていた。


この神の戒めというのは、おそらく、福音書の二つの掟、神を愛し、隣人を愛すということだろう。
それが神の御心を行うということなのだろう。


仏教は、とかく煩瑣に流れ、文献が膨大になり過ぎ、何が何だかわからなくなる傾向がつきまとうが、法然上人や親鸞聖人が最もシンプルに見つけたことも、要はただ二つ、如来を愛し、御同行・御同朋を愛すという、この二つだったのだと思う。


しかし、いつものとおり、浄土教すらが煩瑣に枝葉末節に流れ形骸化し、今やサドカイ人みたいなのばかりになって、あんまりこの二つの精神は生きていないのかもしれない。


二種深信を得て、そのうえで生涯に渡って、如来を愛し、御同朋を愛することの他は、浄土教においても枝葉末節なのだと思う。


広瀬淡窓も、敬天と朋友を愛することをこそ最も大事に説いたようだ。


真理というのはいつもシンプルなものだが、それだけにとかく見失われがちなものなのだと思う。


エス内村鑑三が天才なのは、最も大切なことを決して忘れることなく、そのものずばっとわかりやすく直截的に示したことにあると思う。