現代語私訳 橋本左内 『啓発録』 第三章 「志を立てる」
志とは、心が向かう場所ということであり、自分の心が向かっていく場所のことを言います。
武士に生れて主君への真心や親への孝行の心がない者はありません。
主君への真心や親への孝行の心があり、自分の主君は大事な存在であり自分の親は大切な存在だということが、少しでも理解できたならば、必ず自分自身を大切に大事にして、なんとしても自分こそは武術の道や学問の道において高いところまで到達し、昔の時代の哲学者や紳士、英雄や豪傑のような人間になり、主君のために働き、国家社会の役に立つような偉大な事績をなしとげ、親の名に名誉を添えよう、酔生夢死のように生きる者にはなるまい、という思いがすぐに起こるものです。
これがつまり、志を起こすということです。
志を立てるとは、この心が向かっていく場所をしっかりと定め、一旦上記のように思い起したならば、ますますしっかりとその方向を定め、いつもいつもその心を失わないようにしっかり保つということです。
そもそも、志というのは、本を読んで大いに目を開かされることや、もしくは先生や友人たちとの勉強や質疑応答によるか、もしくは自分自身が困難や試練や苦しみに立たされるか、もしくは大いに発奮し激しく努力するか、そういったところからこそ起こり定まるものです。
いつも安らかに無事に過ごしていて、心がたるんでいる時には志が立つということはありません。
志を持たない者は、魂を持たない昆虫と同じです。どれほど時間が経ったとしても、成長するということはありません。
志が一度でも確立されたならば、それ以後は、日夜少しずつ成長していくものであり、芽が出た草に豊かな土を与えるようなものです。
昔から、機敏で立派な武士だと言われる人も、べつに目が四つあったり口が二つあったりしたわけではありません。
皆、その志が偉大であることと逞しいことにより、ついに世界中にその名を轟かせたということです。
世の中の人が、ほとんど平々凡々で終っていくことは、他でもありません。
その志が太く逞しいものではなかったからです。
志を立てた者は、ちょうど江戸に向かうことを決めた人のようなものです。今朝、ひとたび藩の城下町から出発したならば、今日の夜は今荘、明日の夜は木の本といったように、だんだんと先へ先へと進んでいくものです。
たとえるならば、哲学者や紳士、英雄や豪傑の境地というのは、江戸のようなものです。今日、哲学者や紳士、英雄や豪傑になりたいと志した人は、明日あさってと、段々と哲学者や紳士、英雄や豪傑にふさわしくないようなところを自分から取り去っていけば、どのような知識も少なく元々の能力は低い人であろうとも、ついには哲学者や紳士、英雄や豪傑の境地に達しないという道理はありません。あたかも、足が弱い人でも、ひとたび江戸に行くことを決めた以上は、ついには江戸に到着するのと同じことです。
さて、以上のように志を立てたならば、とりかかることが多くなることを嫌うものです。
自分の心を一つの道に取り決めておかなければ、戸締りしていない家の警備をするようなもので、泥棒や犬があちこちから忍び入ってきて、とても自分一人では警備はできません。
家の警備人にならばまだしも人を雇ったりすることができますが、心の警備をすることについては他の人を雇うことはできません。
ですので、自分の心を一筋にし、きちんと守ることこそ大事です。
とかく若いうちは、人々がしていることやしようとしていることに目が散り、心が迷うものです。人が詩をつくれば詩、文章を書けば文章、あるいは武術であれば、友人に槍に励んでいる者がいれば、自分が今日まで習っていた剣術を止めて、槍というような風になりやすいもので、これが本当の目的を達成できなくさせる一番の悪い根本原因です。
ですので、まず自分の理解が少しでも開けてきたならば、よくよく自分の心と相談し、自分が向かう場所と自分が何をするのかを決定して、そのうえで先生に学び、友人に相談し、自分が及んでいない足らないところを補えば良いのです。その決定したところに心を定めて、必ず多くの枝葉末節に流れて物事を失うことがないように願うことです。
すべて心の迷いというものは、心がさまざまな方向に分かれていることから起こることであり、心が混乱するのは、自分の志がまだ一つに定まっていないからです。
志が定まらず、心が落ち着かないならば、哲学者や紳士、英雄や豪傑にはなることはできません。
また、志を立てる近道は、古典あるいは歴史の本を読み、自分の心が大いに感動したところを抜粋してメモし、壁に貼ったり、あるいは扇などの身の回りの品に記しておき、日夜いつもそれを眺め、自分の身を省みて考察し、まだ達成できていないことには努力し、進歩していることは喜んでいくことが重要なことです。
志がすでに確立したのに、学問に努力することがなければ、志が段々と太く逞しくなっていくことがなく、ともすれば賢さが以前より減って、道徳に関しては初心を恥ずかしく思うようになっていってしまうものです。