現代語私訳『福翁百話』 第九十三章 「政府は国民の公心を代表するものです」

現代語私訳『福翁百話』 第九十三章 「政府は国民の公心を代表するものです」




人間の中には「公心」(公平な心)と「私心」(私的な利害による心)があります。
たとえば、昔の人の言葉に「自分がして欲しくないことを人にしてはいけません。」(「己の欲せざることを人に施すなかれ。」)という言葉がありますが、これは不正や不義が行われることを嫌う心であり、一万人いれば一万人の中に誰も不正や不義を好む人はいないことでしょう。
つまり、これが公心です。
しかし、自分だけに関わる利害に邪魔されて、良くないこととはわかっていながらも正しいことから外れることもあります。
これがつまり、私心が働くということです。


極端なことを言えば、他人の物を盗む人でも、盗賊が横行して自分の者が盗まれることは嫌だと思います。
また、他人をだます人でも、自分がだまされることはとても不愉快だと言います。
自分の心の中では悪い思いが生じるのをおさえることができないのにもかかわらず、自分の外では悪いことが横行して欲しくないと思います。
人間の世界はあたかもこの公心と私心の二つの心の戦場のようなものです。
仮にも、すべての人の私心が高い境地に進んで公心とぴったり合うような境地に至るということが実現しない限りは、公心の力によって私心を制御する以外方法はないことでしょう。
さらに詳しく言うならば、社会のすべての人の心に一点の私心がなくなり、釈迦、孔子、イエスのような人ばかりとなって、つまり黄金世界が現実に見れるようになるまでは、人間がつくった法律によって人間の言葉や行為を抑制せざるを得ないことでしょう。


つまり、これが政府というものが必要な理由です。
政府は、単に良い国民のために災いを防ぐためだけにあるのではありません。
悪いことをする人もまた一緒に必要を感じているところのものです。
ですので、さまざまな国々においては、その国家・政府の起源や由来は同じではありませんし、その統治の仕方も同じではありませんが、結局は政府はその国民の公心を代表するものであり、公心を代表しているものですので国民の目から見れば尊敬の気持ちが当然なくてはならないものです。


ですので、君主が独裁している国においては、君主一人を無上の尊い存在として仰いでいます。
立憲君主制の国では、君主以外に憲法が尊重されています。
共和政体の国では、全く君主がおらず、ただ憲法だけを重視しています。
このように、さまざまな様子が異なっておりますが、どのような政体であれ、政府が尊い理由は、国民の公心を代表し、社会全般の私心を抑えて、安定した社会秩序をもたらすということにあります。


場合によっては、人はひょっとしたら以下のように言うかもしれません。
さまざまな国の統治の仕方は異なっているにもかかわらず、政府は単に国民に代わってその公心としての意志を実行するものだと言うのであれば、あたかも政府は公心の集合としてとてもすぐれているもののようだけれども、その公心はそもそも国民の心の一部分なので、国民が特に敬意を表す必要はないことでしょう云々と。
たしかに、ひとつの説ではあり、学者や知識人が喜ぶことかもしれません。
しかし、今の文明のレベルの段階において、国民の賢さや愚かさを平均するならば、国民の品格は非常に低いものであり、物事の真理をきちんと観察して理解するものはほとんどいないと言っても良いものです。
エネルギッシュに活動している通俗的で凡庸な大衆に対しては、わかりやすい形を示すことこそ優れており、理屈を説くことはそれには到底及びません。


ですので、国家の尊厳などと言って、場合によっては君主の尊さを示し、場合によっては法律の重さを示し、ともかく外面的な様子を示すことは、平均的な大多数の凡庸で通俗的な人間に正しい方向を知らせるための巧みな方法であり、その外面に見るものが礼儀正しく手厚いものであれば、自然とそのことを大事に思いよりどころとするようになり、知らず知らずのうちに素直に従う思いを起すことでしょう。
これがつまり、政府や法律に従わせるための方法であり、国家社会の安定のためには大切なことです。
このことをたとえるならば、先祖の霊を祀るために墓石の石をよく選び、位牌を金で飾るようなものですし、また巨額のお金のやりとりを保証する証書は良い紙を使い文字も慎重にするようなものです。
外面を大事に美しくすることによって、自然と尊重の感情を起させることができます。


政府は単に国民の公心を代表するものと言えば、道理としては間違いないとしても、政府の外面や外観を整えるには、場合によっては君主の尊さによって、場合によっては憲法の重大さによって、ともかく外見を張って、その尊い権威にさからわないようにする習慣をつくらなければ、通俗的で凡庸な人々の社会の安定を維持することはできないことでしょう。
先祖の霊は天にいるのか、どこにいるのかわかりません。
墓石や位牌があるかどうかが、本当に大切なことかはわかりません。
お金の貸借は事実であり、証文の用紙の大きさや立派さは金額の増減には関係ありません。
こうしたことは、道理としてはもっともなことですが、その事柄を大事にするためには自然とそのための方法があります。
こうしたことのすべては、凡庸で通俗的な人間の世界にとって必要なことだと理解すべきです。