現代語私訳『福翁百話』 第九十四章 「政体についての議論」
一国の政府は、国民の公心を代表するものです。
国民の公心を代表させるのに、君主一人による場合もあります。
野蛮や半開の段階の独裁国家がそれです。
あるいは、君主制をとりながら憲法を定める場合もあります。
欧州に多い立憲君主制の国がそれです。
あるいは、まったく君主を持たず、ただ憲法だけによるものがあります。
アメリカ合衆国をはじめとして、欧州にはフランス、スイスなどの共和国があります。
近年、欧米の政界の風潮を観察すると、独裁から立憲君主制に移行し、立憲君主制から共和制に変わるものはありますが、これを逆にして共和制から独裁に戻る事例はなく、またそうした議論も聞きません。
政治を議論する人々の中には、政府を国民の公心の代表、つまり公心の集合体とする説をまず根本とし、ちょうどその考えによって人民に主権を授けることこそ正当であろうとして、統治の形態を共和制に定めているようです。
さらに極端な場合には、その時代の流行の議論に流されて、実際の利害を観察せずに、ただむやみに共和制を主張して得意となり、国にとって君主を持つのは流行に外れていて外見上良くないなどという浅薄な考えによって運動する者もいないわけではありません。
たとえば、立憲君主制と基礎が堅固で円滑に行われているイギリスにおいてすら、今のビクトリア女王の長い統治の後はいったいどうなるやらとひそかに議論する者がいるとのことです。
結局、時勢がそうさせているものですが、と同時に知識人が不注意であるとも言わざるを得ません。
個人的な私の意見を述べるならば、今の文明国において君主制をとるのは、国民の賢さと愚かさを平均すると、その平均水準はいまだにあんまり高くないがためです。
その政治上の心の置き所はまだ低いものであり、公心が集合する点を形のない見えないものにおいて持ち観察することができないがためです。
性急な共和主義を主張する政論家たちがひたすら共和国を主張するのは、自分の身が多くの愚かな人々の一緒に暮らし、自分自身もその愚かさをともに持っているのに、その事実を忘れたためにそんなことを言っているのだと、私は躊躇なく断言します。
このことを宗教上の話にたとえて言うならば、仏教徒が崇拝する如来というものは、本来はなんらかの物としてあるものではありません。
人間においてありうる限りのあらゆる善い心や美徳を想像して、その最高の善や最高の美の境地を描き、それに対して如来という名称で呼んでいるまでのことです。
ですので、その名称もひとつには限りません。
徳を表す場合には、徳を表す如来の名があります。
智慧を表す場合には、智慧を表す如来の名前があります。
明といい、光といい、不可思議といい、十方無碍といい、無辺広大などなど、さまざまな言葉を用いますが、要するに最高の善や最高の美、最高の明るさや最高の広大さの徳を表現して、それを仏として仰いでいるものであり、その様子は、現実の通俗的な世界において国民の公心を代表している存在を政府と名付けていることと同じことですし、そのことによって政治や法律を尊重することに至るという利益を蒙っていることと同じです。
ですので、理屈から言えば、仏の徳は美しく偉大なものであるけれども、そのことは形の無い目に見えないものの間に観想することができるものであって、必ずしも拝む必要はないことになります。
一国の政治や法律が公明正大であると言っても、ただそれは便利だからよりどころとしているだけであり、必ずしも敬意を表す必要はないようなものです。
しかし、いかんせん、智恵もなく知識もない凡庸で通俗的なこの世界を導くには、深遠な理屈によってではなく、ただ目に見える形に示すという方法があるだけです。
浄土真宗において本尊を拝む時には、木でできた仏像よりも絵に描かれた仏像が良く、絵に描かれた仏像よりも南無阿弥陀仏の名号を尊ぶべきだという説があります。
金箔をつけた木像を安置して仏の徳を表すようなことは、単に一般的な通俗的な人の目をひきつけるための巧みな手段に過ぎません。
そうした手段は仏教の本意ではないために、やむをえない場合でないならば、木像よりも絵像にする方が淡泊であって良いとされます。
絵像まだ形を残していてあんまり良いものではないために、むしろ南無阿弥陀仏の六字だけにすればさらに良いという意味です。
本当の真実を言えば、この六字の名号も無用であり、念仏もなく、寺もなく、仏壇もなく、坊主もなく、経典の文字もなく、あらゆる宇宙の中に仏の徳が存在しているのが本当でしょう。
このような説や境地は私が非常に感心しているところであり、このような理解や境地に心を落ち着けて心の置き所を持つことは、心の置き所や安心の仕方としてとても高いものだと思いますが、しかしこれはただ自分ひとりだけで思うべきことであり、人に話しても本当に理解する人は、僧侶の中であってもあんまり多くないものです。
ましてや大多数の通俗的で凡庸な子どものようなレベルの大衆においては、言うまでもないことです。
如来は金箔によって光、絵像にきれいに描かれてこそ尊く、名号によって現れ、目に見えて拝み、耳に聞えるからこそ喜び、ともかく耳や目に直接触れることができるものを尊敬し、その尊敬する心に誘導されるという方法でのみ、知らず知らずのうちに仏の徳への信心の思いが起こることができることでしょう。
これは、仏教の本当の教えがどうであるかに関係なく、何千年もの間、今日に至るまで、木像、絵像、名号などのさまざまな物が必要である理由であり、結局のところ人間の品格がまだあまり向上せず進歩していないことの証拠として観察することができるものです。
政治の世界の事情もまたそのようなものです。
独裁国家の君主が、空の下、地の果てまで君臨し、馬車や宮殿などの外見を張って衣装や冠や文物の美しさを輝かすのは、木像に金箔を貼り付けるのと同じです。
一歩を進めて、立憲君主制をとって整然とした様子を持つイギリスのような国は、やや淡泊であって君主を絵像にしたようなものです。
さらに進んで、アメリカ合衆国などになると、木像にも絵像にも如来を見ずに、単に憲法という二文字の名号においてそれを崇拝するようなものです。
さて、その利害がどうかということを論じるならば、すべて国民の賢さや愚かさに関わってくるものであり、独裁が必ずしもいけないというわけではありません。
国民の心が頑固で愚かであるならば、すぐれた一人の人物の心によって国民を支配することは、父母が子を支配するようなもので大変素晴らしいことです。
しかし、歴史は平均してみれば、その権力を握る一人の人物というのもまた国民と同じように頑固で愚かな人間であることが多いため、独裁という方法はまずもって危険だと知るべきです。
独裁よりも上には、立憲君主制と共和制の二つ方法があります。
その良し悪しがどうであるかは学者や知識人が最も関心を抱くところであり、さきほど述べた共和制を主張するという流行もそのひとつです。
しかし、私の意見は、この二つは両方とも現実の政治においては大きな違いはなく、その国の風俗や習慣あるいは歴史の経緯によっては、立憲君主制こそかえって利益があると信じているものです。
そもそも、人間の社会が達成するべき本当の目的とは、人間の私心と公心とを一致させ、自分がして欲しくないことを人にすることがなくなり、一点の私心を持たず、自他の利害を忘れて、それぞれ自分で働いて自分で生活し、社会全体の苦労や楽しみを平均して社会全体の喜びや憂いとし、お年寄りや幼い者や病気の人など自分で働くことができない人は安心して他の人々の助けによって生活し、経済的な利益を貪ることなく、お金の貸し借りについては必ず信義を守るだけでなくそもそも貸し借りの問題さえ無用なこととなり、社会の光景はただ友愛と慈愛が溢れるばかりで、ちょうどひとつの家族が仲良くしているようなものに至ることでしょう。
良い家と呼ばれる家の内部には、今日すでにその端緒が示されています。
ただそれを広く社会に及ぼし、世界中が一つの家族のような素晴らしいものになることを見るまでのことであり、それほど度外れた望みというわけでもありません。
このような境地に達する時は、社会は本当の自治を実現し、人々はお互いに契約することはあっても、その契約は違反した場合に罰するための用意ではなく、ただ忘れることを防ぐための手段として契約するだけとなることでしょう。
このようになれば、世の中に犯罪の問題もなければ法律を用いる必要もなく、特に政府を設立して人を煩わせる必要もなく、政府もなく官僚もなく、また憲法もなく、ただ公平無私な人々の心に任せて、災いもなく害もなく、悠々として世界はひとつの大きな家族、人間はみな兄弟姉妹となるはずです。
しかし、世界の歴史が始まって以来、いまだにまだ人類の年齢は年若く、文明は幼稚な段階であり、人類の無知と智恵の乏しさは、世界がひとつの家族であるどころか、それぞれにただ私的な利害を争うばかりです。
その争いこそまさに人間の世界の出来事の本来の様子のようであり、争わなければ自立できないとさえ言われます。
国家の呼ばれる一つの団体の人が、他の団体と争い、あげくのはてには兵器を用いてお互いに殺し合うようなことは、毎度のことであり、その話はしばらく置くとしても、その一つの団体の内部においても、名誉を争い利益を争い、富や地位や肩書や業績はいつも喧嘩を起す原因であり、仮にも付け入る隙があれば相手が誰であれ付け入らない者はありません。
このことを生存競争と呼びます。
ひどい場合には、偽り騙す人もいます。
盗む者もいます。
さらにひどい場合は、人間であって、同じ人間であるはずの人間を殺す者さえいます。
ほとんど動物にも劣る様子ですが、さすがに人間は万物の霊長であり、このように一方では卑劣や私欲をほしいままにしながら、他の一方ではこのような様子を嫌い、悪いことが行われるのを好まない心があることこそ幸いなことでしょう。
この心が向かうところに従い、人々が帰する中心点を定め、政府というものを設立したのは、そうだと知っている人こそいないものではありますが、人間の心の自然な働きがとてもすぐれているものだと評価できるものです。
そうであるのに、この世界の現実において、その政府のつくられた起源を調べてみるならば、その多くは腕力によっているものであり、政府をつくった人の心のありように関係なく、国民の目から見れば強奪の姿であるがため、その外面を装うためにさまざまな手段を用い、ある場合には君主の盛んな徳を褒め称え、ある場合には天から与えられ天に助けられているなどと言って、ともかく一国に君臨する者は一種の神のようなものとしてその尊厳を維持するとともに、国民もまた漠然としており、政府は国民の公心を代表するものだという思想には乏しく、ただ外形を見て心酔することが通常です。
そのため、君主は尊いものだと言えば、その尊い様子を仰いで服従し、そのことによって政治や法律を重んじる心を起こすことでしょう。
結局、君主や政治や法律がなぜ尊いかという理由を知らずにそれらを尊ぶ様子は、仏教の信者が、仏法の真理を知らずに、仏の外形を拝み、如来の尊い仏像を重んじる心から移行して、自然と仏法に帰依するようなものです。
あるいは、今、立憲君主の政体は、君主以外にも憲法を重んじているということがありますが、その国民が君主を至って尊いものとして重んじる感情はほとんど自然のようなもので議論の余地がないものでです。
イギリスの政府の命令はすべてビクトリア女王の名前によってはじめて体裁を成しており、女王が授ける公爵(duke)・侯爵(marquis)・伯爵(earl)などの爵位は大変重んじられています。
少し冷静に考えれば、爵位のようなものはただ飼い犬の首輪と同じです。
人間の首に金の輪っかをつけられてかえって顔が赤くなるようなことですが、通俗的で凡庸なこの世界の流れにおいては、そのことに恥ずかしくて顔を赤くしないのみでなく、この爵位を得ようとして東奔西走し、その熱中のあまりに顔を赤くしている人こそ多いものです。
笑ってはいけません。
ヨーロッパ諸国の無数の愚かな人々がローマに参詣してローマ法王の足を舐めて、また日本の田舎のおじいさんやおばあさんが本願寺の門主の御剃刀をいただき、門主が入ったあとの風呂の湯を飲むようなことは、すべて迷信がそうさせていることです。
ですが、これを、この通俗的な世の中における爵位や官職などの、一片の辞令を得て感動のあまり涙し、この上ない光栄なことだとしていることと比べると、あんまり違いがないことです。
要するに、今のいわゆる文明の世界は、宗教の世界も政治の世界も、いまだに形があり目に見えるものを崇拝する段階の時代であり、子どもの群れ集まっているようなものでおとなはおらず、子どものさまざまな遊びのみあって、遊んではまたふざけて遊んで、やっとかすかに政治や法律の力によって怪我もなく社会を維持しているような様子ですので、このような段階の文明の社会には決してあまり多くを求めるべきではありません。
仮にも社会の秩序を保つことに利益があるというのであれば、その物事の性質は問わずに、ともかくもそのことを保存して、子どもの群れの信心をつなぎとめ、そのことによって遊びや悪ふざけが過度にならないようにコントロールするのが智恵ある人のすることでしょう。
立憲君主制における君主の必要性はこのことによって理解できることでしょう。
ですので、立憲君主制から一歩を進んで共和政体は直接的に人民の心を代表しているとは言いますが、私欲をほしいままにする人民たちがその公心の一部分によって約束をつくり、その約束に憲法という神聖な名前をつけているだけのことであて、共和政体の国の人民が憲法を尊重する感情は、立憲君主国の人民が君主を仰ぐのと同じです。
イギリスの政治や法律は女王の名によって威厳がもたらされ、アメリカの政治や法律は憲法の神聖さによって重きをなしています。
あちらは絵像を尊び、こちらは名号を拝むという違いがあるだけです。
公私の二つの心がお互いに衝突して、自分の心の中で自らをコントロールすることができない人民を、ひとつのより所に服させるには、人物であっても、あるいは約束を定めた文書であっても、それを一種不思議な神聖な威光で装い、そのことによって人民の心をつなぐ他に手段はないことでしょう。
このことはただ、通俗的で凡庸な人々を巧みに手なずけるための手段としてみなされるべきものです。
今、試みに、浄土真宗の僧侶に向かって、なぜ名号は尊いのかと尋ねるならば、南無阿弥陀仏の六字の名号の中に仏の御徳が含まれているためだと答えるでしょう。
共和政体の国の人に、どうして憲法が神聖なのかと理由を尋ねるならば、国民の公心を代表しているからだと答えることでしょう。
そうであれば、つまり、一人の名前によって国民の公心を代表させるイギリスのようなものも、憲法という名称によってそうしているアメリカのようなものも、その代表という事実は同じことであり、仏の御徳を表すための形として絵像と名号とどちらが良いかは言うことができないようなものです。
結局、立憲君主制の制度も、共和制の政体も、両方ともある時代の巧みな手段として生じた統治の方法であり、今もまさに文明が進歩している中の途中の段階に存在しているものですので、両方ともにその利害を簡単には断定すべきでありません。
国民の心の置き所を問わずに軽率に決めてかかり、かえって大きな損失があることもあることでしょう。
仏教が始まって以来、稀にはその真髄を理解する人がいないわけではありませんが、今に至るまで絵像はもちろん木像をも廃止することができていません。
そうである理由は何でしょうか。
たとえ、木像や絵像の二つの方法を廃止して名号だけにしたからといって、その名号もまたいまだに形あるものであり本当の真実ではありません。
一方にいまだに真実ではないのに、他の一方において、通俗的で凡庸な人々の目にはふさわしい木像や絵像を廃止して、そうした人々の信心を失うことは、智恵ある人がすることではないがためです。
ですので、今なお、木像・絵像・名号の三つの様式が存在し、そのどれを礼拝するかは信者の心の置き所や理解がどのようなものであるかに任せているわけです。
ですので、共和制の統治の仕方はやや淡泊なようですが、今の時代における共和制の憲法ですので、立憲君主制に比較して、五十歩百歩も違いはないことでしょう。
文明の本当に開けた目から見る時は、すべては愚かな人々が愚かな中に囲まれて制御する方法に苦しみ、やむをえないために始めた窮余の一策ですので、要はただその国民の賢さや愚かさの程度を観察し、その歴史や習慣がどのようなものかを察して、ふさわしいものを選択し、百年後千年後に文明がより完成していくことを期待するのみです。
文明の進歩は、はてしなく広く長いものです。
たとえ立憲君主制で君主がいるからといって、百年千年の間に、一人ぐらいそんな存在がいたからといって、包容する余地がないものでしょうか。
ましてや、その人は一国の公心の代表者として国民の心をつなぐ資格がある場合においては。
仮にも識見を具えた識者であれば、甘んじてそのような一人の君主を戴くことは、世俗社会に暮らしながら宗教上の崇拝をなおざりにしないようなものであり、ますますその信心を厚くさせることこそ社会を運営するために大事なことでしょう。
流行の共和制を主張する人々が、イギリスの立憲君主制でもまだ満足せず、むやみに変革を願うようなことは、文明が進歩するのは遅々たる歩みであるという決まりごとを理解せず、今の統治の仕方は立憲君主制でも共和制でもすべては愚かな人々を制御するための窮余の一策だということを理解せず、自分自身も愚かな人々と混じって暮らしており、かつその愚かさをともにしている人だということを理解せず、今日にいながら今日を知らず、千年の後を思ってあたかもそれを目の前に期待し、一足飛びに富士山の山頂に登ろうとしてまずそのふもとの石に躓く人です。
私は、この種の論者に向かっては、ただその短気と性急さを気の毒に思うばかりです。