現代語私訳『福翁百話』 第百章 「人間の物事に絶対的に素晴らしいということはありません」

現代語私訳『福翁百話』 第百章 「人間の物事に絶対的に素晴らしいということはありません」



今のこの世界の人類は、世界の歴史が始まってからまだ年齢が若いようなものです。
文明という道のりの初歩であり、だんだんと前進している最中の存在ですので、その行いには絶対的に素晴らしいというようなものは、見ることができません。
たとえて言えば、下手な大工がおおまかなことを想像して、それぞれ自分の持っている技術の限りを尽くして働き、先祖代々、何百代も、何千何万年も努力してきたけれども、今日まだ未だに土台を築くこともできていないようなものです。
その大工たちの技術は、世代ごとに進歩することは間違いありません。
今までの経緯を見れば、以前と後のものとの間ではその上手さと下手さには大きな違いがあるようです。
しかしながら、いかんせん、人間には深く通じた智恵がなたいめ、場合によっては進歩するようで、場合によっては退歩するようで、頼りにすべきではないものを頼りにしたり、行くべきでない時に行ったり、辛く苦しい思いをして悶え煩い、無駄な労力を費やしたり無駄な出費をしたりといった愚かな振る舞いをすることが多いものです。
土台どころの話ではありません。


仮に、こうした人間の状態に対して、文明という呼び名をつけてはおりますが、その実際は子どもの遊び戯れと似たようなものです。
ですので、この子どもの遊び戯ればかりさまざまにあるこの世の中において、自分もまた他の人とともに一人の子どものようなものですし、何を基準にして正しいか間違っているか利益か損失かを断定できるものかは定かではありません。
正しいと言えば正しくならないものはなく、間違っていると言えば間違いにならないものはなく、人間のあらゆる物事は利益も損失もないと言うこともできます。


たとえば、道徳の議論においても、古代中国の伝説的な名君の舜は堯の二人の娘と結婚しました。
さらに、もう少し後の時代の、孔子の時代の王侯たちも、九人の女性を妻にしたりして、一夫一婦は礼にかなっていないなどと言っていました。
多くの妻をめとるという主義は、イスラム教の国々においても公然と行われています。
それに対して、今の西洋諸国では、一人の妻以外は許していません。
どちらが正しいか間違っているかは、はっきりとは決めがたいことです。
しかし、世界の人類を等しくその人数を数え、その智恵や能力の程度を計って、上等と下等の二等分に分けて、その上等な部分の多数において正しいとされているものを正しいとし、間違っているとされているものを間違っているとする以外決める方法がないので、そうしますと、今のいわゆる文明国と呼ばれる国々において行われている一夫一婦制の決まりこそ道徳において正しいことということになります。
ですので、古代中国のような多妻制とは、今と昔とで道徳の議論が変化したものと言えます。


また、事柄は小さなことですが、日本において、明治の初めごろ、火葬を禁止するという議論がやかましく行われました。
両親の遺体は土をその肌に近づけることもいけないのに、ましてや焼いたりするのはとんでもない、火葬は外国の野蛮人の方法であり、天の道理や人の道に反することだと、儒学者などがしきりに口やかましく主張して、一時は火葬が禁止されました。
しかし、禁止以後、なにかと不都合であり、今は昔に戻っています。
日本全国で、両親の肉体を火葬にして、つまり儒学者から言えば天の道理や人の道をないがしろにしている人が、毎日何百人何千人いるかわかりません。
君主に忠義を尽し国を愛するというモットーも、世界の交通手段の発達とともに、その範囲が広くなっていきました。
昔は、君主の乗って馬の前で討ち死にしたり、君主の死んだ後には殉死をすることが、この上ない忠義だとされて他のことはありませんでした。
しかし、今の時代は、外国との交流も頻繁であり、平和な時にはビジネスで競争し、非常事態には軍事力で競争しています。
さらには、平和な時も非常事態も国家の威信には経済力がどうであるかが関わってきます。
ですので、仮にも国を愛そうと思うならば、それぞれに自分の仕事に努力してまずは自分の家庭の独立を達成すべきです。
そうしたひとりひとりの人や、ひとつひとつの家族が集まり、一国の富の源となっているという、経済における決まりごとを忘れるべきではありません。
各人が自分個人のことに努力するのは、つまり公のことに貢献するための道です。
今と昔によって、君主への忠義や国を愛する道の様子が変化し異なるようになっているわけです。
ですが、人間が世の中に生きていくために最も大事なことは財産を積むことにあると言って、一生の間、心を金銭にばかり傾けて他のことへの思いを持たないこと、まるで中国人のようであるのは、金銭のために精神的な気概を麻痺させてしまっているものであり、国家を成り立たせるためには最も嫌うべきことです。
忠義を志せば経済からかけ離れた考えに陥り、経済を思えば忠義を忘れると言うこともできます。


昔の人の言葉に、「お金持ちになるための努力をすれば思いやりがなくなり、思いやりを大事にすればお金持ちになれない」という言葉があります。
富と思いやりとどちらが正しく、どちらが間違っているか。
富を軽視してお金の貴重さを忘れて、のんきに気楽に過ごして、大きなことばかり言って世の中を過ごし、あげくのはては他人に迷惑をかけて世話となって、したがって自分自身を苦しめ、両親や妻や子に恥ずかしい思いをさせるのも、決してすぐれたことではありません。
しかし、高利貸しが人間としての大事な道も人としての情けも知らず、巨万の富を積み、七十代や八十代の高齢になって、あげくのあてに身の回りの金庫を睨みながら死んでいくようなこともまた、決して全然すぐれたことではありません。
十善戒をきちんと守っている清らかな僧侶が、無欲なことあたかも木や石のようで、人々を仏教の道に導くことは非常にすばらしいことですが、もしもこの人々が真面目に仏教を大事にして言葉の通りに善男善女になってしまったならば、一国は坊主と尼さんばかりの集まりとなり、畜産や漁業・狩猟ができなくなるだけでなく、衣服や食べ物、娯楽や風流な遊びのことまで、すべて顧みる人はいなくなり、人間はただ生れて死を待つだけのようなものとなり、大変さびしいこととなることでしょう。
しかし、人々は頑迷で愚かであって、簡単には仏教の門に入らず、信じるようで疑うようで、あるいは自分の煩悩を嘆きつつ、完全な悟りに至ることもできなくて、その中間をさまよっていることこそ幸いなことでしょう。
なぜならば、清らかな僧侶が全力を尽くして戒めを守る必要を説いても、到底そうした僧侶によく似た類の人は少ないからであり、社会が枯れたものになる心配がないことを知っているからです。


長年の若い頃からの志に熱中して苦しい政治の世界に身を投じて、つらい思いをして苦労して努力して、面白くもない人たちと付き合って心にもないことを言い、外面と内心とでは喜びや怒りや悲しみや楽しいことの感情は表裏異ならせて人付き合いして人の調子を取り、その願いがどこにあるかといえば、ただ立身出世して故郷に錦を飾ることだけにあると言う人もいます。
大変俗っぽいことのようですが、しかしながら、風流な頭の良い学識がある立派な人物という人が、そうした俗っぽいことを嫌うと言って、まるでこの世を何もかもわかったような顔をしてあらゆる物事を見下して、天の徳は私にあるので、人間が定めた地位や身分など何の関係があろうかなどと言って、自分ひとりでお高く構えて、人間の出来事やこの世の義務を無視するようなことも、そんなに感心するようなことではありません。
人間の定めた地位や身分には拘泥しないというのは、天の定めた地位や立場を重視するという意味なのでしょうけれども、天の定めたものであれ人の定めたものであれ、その地位や立場の軽さや重さを気に掛けるのは、心があんまり淡々としないということです。
この移り変わりの激しいあんまり文明の程度も高くない通俗的な世界においては、人間の定めた地位も必要なものであり、天の定めた立場も非常に素晴らしいものです。
ただ、その時々の事情によるべきです。


また、経済において主に大事なことは、勤勉努力ということであり、道徳が教えることは節約と正直であって、人間の家庭生活や社会生活においてはこのどれか一つも欠けるべきではないと言います。
ですが、この世界の金持ちたちが、この教えを大事に守って、さらに法律の保護も受けて、毎年毎年すでに持っている私有財産を増やし続けるならば、世界中の富は何年もしないうちに少数の人々のものとなることでしょう。
政治を議論する人々が政治における圧政を嫌って、やっと権力の分散や平等な権利を得たというのに、不平等の様子が変わって経済的な貧富の不平等となって、貧乏人が経済的な圧迫に苦しむ苦痛は、政治権力の不平等よりもひどいものもあることでしょう。
欧米諸国ではすでにそれが始まっていますが、今日まだそれがひどい状態に至っていないのは幸運なことです。
それは、金持ちや富豪たちが、あんまり徳がなく、注意もせずに、ともすれば怠惰で贅沢をほしいままにしているだけでなく、時としては不正を働いたり、時としては余計な危険を冒して、さまざまな間違いをしでかして大失敗を招き、思いもよらないところで貧富のバランスをもたらしているということがあるからです。
これらの点から見れば、社会の安定は、人の注意によって維持されているのではなく、むしろ不注意や間違いによってもたらされていると言うこともできないわけではないようです。


政府の役人は偉く民間人は偉くない(官尊民卑)という考えは嫌うべきもののようではりますが、あんまり人々がわがままになり過ぎると国が治まることはできません。
男女が平等で権利が同じになることは非常に素晴らしいことですが、あんまりそのことばかりになると、男性のすぐれたところも女性のすぐれたところもあんまり良く発揮されないようになり、東洋でも西洋でもそれぞれ苦情を訴える人が多いものです。
また、個人のことから離れて国家公共の事柄に議論が入っていくとしても、何が正しく間違っているか、何が利益で何が損失かを断定することは非常に難しいことです。
この世界はみんな兄弟で、同じように慈しもうということは、口で言われることばかりで、現実はちょうどその正反対で、生存競争の世界であり、それぞれに国家を立てて、頼みとなるのはただ武器や砲弾だけだといって、海軍や陸軍の軍備に全力をそそぎ、各国が向かい合って相手に遅れをとることを心配している様子が今日の事実です。
本当にやむをえない様子ではありますが、その軍備の進歩はどこまで行ったらストップするのでしょうか。
このままにしておいて、毎年毎年進む一方ならば、あげくのはてには人間の世界のあらゆる衣食住の生活をすべて喧嘩や闘争のために捧げることになり、子どもや孫も代々ずっと喧嘩のために生れて、喧嘩のために働き、喧嘩のために死ぬこととなります。
人間の賢さや愚かさの程度や、機械の発達程度や精巧さこそ違っているでしょうが、同じ人間同士が殺し合い、お互いに食い合う事実は、あたかも大昔の野蛮人と同じというおかしな光景を呈することに至るでしょう。
これまた、文明が進歩するという決まりからすれば、そうした方向に進むべきではない道であり、世界のさまざまな強国の情勢も、冷静な目から見るならば、ただ一笑に付すべきものです。


総じて、これらの事柄を数え上げれば枚挙にいとまがありません。
つまり、世界の歴史が始まって以来、子どもの遊び戯れであり、さまざまな遊び戯れをしては限りがあることなく、ともすれば現実に利害にぶちあたって苦しみを覚え、その苦しみのあまりに、時には道徳の考え方を改めたり、経済における利益や損失を変化させたり、名誉や恥辱の根本をひっくり返したり、喜びや悲しみの感情を違うようにしたり、個人の家庭生活や社会生活から、社会の運営方法や国家の軍備のことに至るまで、その時にかなっている素晴らしいものを素晴らしいものとするだけのことであり、本当に永久に素晴らしいものをつくりだす方法はありません。
百年のスパンで利害を考える、といったことや、千年の長い視野で利益や損失を考える、というようなことは、昔から聞きなれた議論ですが、しかしながら実際に人間の出来事の経緯と照らし合わせて今までの事績を見るならば、利害や損失は百年や千年を待たないうちに簡単にひっくり返るものが多いことこそ、どうしようもないことでしょう。


隠居した人が、茶道の趣味から茶室をつくって、もはやこれで何の不満なこともないと満足したのに、二、三年のうちにだんだんと面白くなくなり、何かと不都合だと言ってさらに新築を企てたりすることは、世の中によくあることです。
人間のあらゆる物事はすべて、この茶室をつくることのようなもので、絶対的に素晴らしいということは、到底今の人間の智恵や道徳の程度からは望めないことですので、ただわずかに三十年か五十年を考えて、これが利益である、これが得策である、と思ったことを選択して実行する以外にはありません。
それでも、あるいは、ごく短い期間のうちに、予期していたことと異なって、正反対のことになることもあることでしょう。
これもまた、下手な大工の工事においては当然のことだとして、あんまり深刻に責めるべきではありません。


結局、今の文明における人間の物事は、遠い将来の黄金時代を期待するとしても、実はその方角さえも知っている人は少なく、何の智恵もなく力もない人類は、むやみにさまよって、一日一日を過ごしているものだと知るべきです。
ですので、今の世界に絶対的に素晴らしいということはないとはいうものの、それでは知識人や学識ある人、見識がある立派な人物だと自らを呼ぶ人間が、どのような責任があるかというと、冷静に静かな心でこの通俗的な世界の情勢を観察し、その足りない部分を助け、その行き過ぎている部分を制御し、どんどん移り変わっていくこの俗っぽい世界があまりにも逸脱することを止めることにこそあります。


世の中の風潮が学問や勉強ばかりでひ弱な方向に流れる心配があれば、スポーツや武道を尊ぶことを説き、あんまり無骨になるならば文化や学問を語り、社会が利益を求めて競争することがあんまりひどければ思いやりや正義を説き、思いやりや正義の空理空論で生活を忘れる人が多ければお金の必要を話すべきです。
官尊民卑の議論、人が定める地位や天が定める立場による名誉や恥辱のこと、男女平等や同権が正しいか間違っているかなど、どれがそもそも素晴らしいことか、知識人や学識ある人もこれまたこの通俗的な世界の一人であって、断定する智恵はありません。
大事なことは、ただ、社会において高いところに身も心も落ち着かせて、不完全ながらも自分が信じていることを実践して、そのことで他の人の基準や模範となり、そのことによって人々の熱狂を冷却させて、人間の物事におけるバランスをとるようにさせて、一時的に取り繕ったり、一時的になんとか小さな安定をもたらすことを行い続けて、ひそかに思いや考えを永遠に馳せて、世界が将来進歩することを待つということにあります。


今まで述べたように、この世界の人間の物事に絶対的に素晴らしいというものはありませんが、ただそれは、今の段階の人間の文明においてそうだというだけのことです。
何千年、何万年の後には、絶対的に素晴らしいということがあるということは、私は確信して予想していることです。
そして、そのための道のりにおける順序としては、まずは物質的な世界において、機械的に、物理を知ることにあります。
物理を極めて、一歩一歩天がつくったものの領域の中に侵入し、その秘密を明らかにして、その真理や原則を確かめ、確かめ尽くして残る余地もないほどになれば、あたかも宇宙を統率してわがものとする日もあることでしょう。
つまり、天と人類とが合わさる(天人合体)の時であり、この境涯に達する時は、人間の世界において、形のない精神的な事柄というものはもはやなくなることでしょう。
なんらかの物事があれば必ずその物事の原因か、あるいは原因でなければその物事に応じている物質の形を明らかにし、その二つの物事がお互いに直接的に関係していることは、影と形のようなものであり、ついには人間の心の正しさや悪さや清らかさや濁り、喜怒哀楽などの感情に至るまでも、五感でよく把握できることとなることでしょう。
すでに今日においても、眼の光を見て人物を評価したり、もしくは人相学において手足の長さを計ったり頭蓋骨のへこみや出っ張りからその人の特徴を判断するようなことは、実に何の根拠もないでたらめのようではありますが、時には実際に的中することもあるので、全く無視してなくすことはできないものです。


さらに、それらのことから一歩を進めて、医学の領域に入るならば、見るべきものは多くあります。
たとえば、細菌学のようなものは、昔の時代の人が単に人間の身体機能の変化による病だとして漠然と見過ごしてきた形の無い現象を、最近という形あるものが直接そうさせているとしてその関係を明らかにし、さらにますますその道を進んで進歩しようとしているものです。
また、精神病理学においても、精神のさまざまな症状を観察し、その症状の実際に対応している神経や脳の中枢の所在を究めようとして、手段に手段を尽し、今日までの進歩においてその物質が位置するところは脳膜のあたりにある細胞であるようだとのことで、百のうちの二か三の事実はすでに医学の手の中にあるとのことですので、これからもただその方向に進むだけのことです。
ですので、医学の方向性は、形の無いものから形ある物質へと入っていき、今から何十年何百年の後には、単に病気と呼ばれるものはなく、あらゆる病気を、化学、視覚の科学、聴覚の科学、機械学の中に網羅して、病気があれば直接的にその物質的な原因を指し示し、病気の治療はとりもなおさず物質の整理に過ぎないこととなり、精神病のような微妙なことも、ついには物理学の範囲となるまでに至ることでしょう。
医学においてこのようであれば、人間のあらゆる物事もまたそのようにならざるを得ません。
人間の心が人それぞれ異なっていることは、人それぞれの顔が異なっているようなものであり、善や悪、正しいか悪いか、剛毅か柔軟か、気が短いか長いかなどは、判別することが難しいものです。
しかし、人間の心がはたして人間の身体の物質的な実質に関係しており、身体から独立した心もなく心から独立した身体もなく、両方ともまさに形と影がお互いに応じているようなものだとするならば、物理学の進歩によって人間の身体の内部に入り、だんだんとその微妙なところまで把握して、その運動や変化の仕組みを明らかにするならば、心と体の関係の本当の姿を理解して、機械的に人間の心を観察する方法もあることでしょう。
今の幼稚で不完全な医学においてさえ、すでに精神と物質との連絡を明らかにしようとして努力している人々がいます。
病気の人に関して、精神と物質との連絡を明らかにする道があるならば、健康な人に関してもまたそうであるはずのことは言うまでもないことです。
人間の文明がまだ開けておらず、今の世において言うからこそ、おかしな話のようですが、知識人や学識ある人が、もし深く遠大な思いや考えを持っているならば、自分一人でも百年、千年、万年の後を思い描くべきです。
人間の世界の物質的な事柄や形のない精神的な事柄や、あらゆるすべてのことを物理学の中の網羅して、光があまねく照らし、一目瞭然になり、あたかも今の世の中の暗黒が一変して真昼間にあるような様子があるであろうことは疑いありません。
ですので、今の物理学が不完全であっても、その研究はまさに人間が絶対的に素晴らしい物事に進むための順路です。
ですので、知識人や学識ある人が、物理学を一日でも勉強し、一つの物事に気付くだけでも、私は絶対に賛成であり、他の思いはありません。


『福翁百話』完結