現代語私訳『福翁百話』 第九十五章 「自分で理解し自分で省みるべきこと」

現代語私訳『福翁百話』 第九十五章 「自分で理解し自分で省みるべきこと」


文明の完全な姿は何百年何千年何万の後に期待すべきことで今現在は見ることができないものです。
今現在の人間の出来事はただ文明の進歩の中の一節であり、そもそも絶対的な良いものがあるはずもなく、ただ人間の力のあらん限りを尽くして智恵や道徳を向上進歩させ、まがりになりに安定した状態を維持してはるか先の大いなる完成を望むだけのことです。
ですので、仮にも人間として今の世の中に生きている者は、この文明の進歩を妨げないべきです。
特に、私が社会におけるリーダー的な存在の人々に向かって望むのは、それらの人々が通俗的で凡庸な人々の中に混じって暮らし、ともに通俗的で凡庸な事柄を一緒にしながら、精神だけは一段と高い所に構えて独り通俗的で凡庸な世界を離れ、他の人と同じようにこの現実世界のおかしな戯れを戯れながらも、時々は自分で目を醒まして、遊戯は遊戯であることを自覚するということです。


昔の封建時代の武士は、はかりしれない大酒飲みで、前後もわからないほど酔っぱらっても、家に帰る時に自分の持ちものである二本の刀を忘れたという話は聞きませんでした。
いわゆる「上戸本性」(いくら酒に酔っていてもその人の本性は失われない)であり、酒の席の喜びは大変大きいとは言っても、武士の魂である大小二本の刀は酒のために忘れることはなかったという証拠です。
ですので、今の進歩的なリーダー的存在である人々は、あるいは経済に志して事業に奔走し、あるいは政治に熱心に取り組み立身出世を工夫し、巨万の富を積んでビジネスの世界の一喜一憂を左右し、爵位は身に余るほど得て豪華な衣装や勲章は人々の注目の的となるようなことはたしかに十分得意となるようなことであり、その愉快なことをたとえれば、酒に飢え乾いていた人が酒でできた温泉に入ってうっとりとするような様子であり、前後も忘れて得々としているのは至極もっともなことです。
しかし、酔っぱらっている間にも本当の心で自分を反省するならば、経済も政治もすべてこの束の間の世界の遊戯のようなものであり、その名誉や利益における成功はただ子どもの遊びがいよいよ楽しい局面に入ったものに過ぎないと気付くべきです。
いったん目が大きくひらいてそのことに気づけば、経済的な成功や高い地位は必ずしも経済的な成功や高い地位でなく、貧しいことや地位が低いこともまた貧しいことや地位が低いことではなく、人生は他に楽しむことができるものとなることでしょう。
つまり、この狭い世界を広くする精神的な方法であり、世界が広くならば生きやすくなり、またさまざまな物事を受け入れやすくなることでしょう。
そのことによって、立派な人物とも交際でき、つまらない人物とも交際することができ、清濁併せのんであらゆるものを包容し、人のことばは聞き流して、どの人もそれなりに善い人だと言うことができる心の置き所を得ることができます。


このことを、他人のちょっとしたひとつの言葉やひとつの行為を気にし、自分がちょっと謗られたり褒められたりすることにも苦労し、家の門前の痩せた犬が見慣れない旅人が通り過ぎるのを誉めたて、動物園の猿が桃を抱えて奪われないように心配しているようなものと比べれば、精神の思いや考え方の悠々としている様子はとても同じに語ることはできません。
ただこの違いは、人間としての本当の心を忘れるか忘れないかということだけによります。
社会全体の品位を高くし、智恵や道徳のレベルを向上進歩させるには、その基準がなくてはならないと言われます。
知識人やリーダ的存在の人々こそその任務に当たる者であり、心の中の深いところでは常に人間としての本当の心をしっかり保ち、何かの機会に触れては通俗的で凡庸な人々を導く存在であって欲しいと私は願っています。