現代語私訳『福翁百余話』第十二章 「思想における中庸」

現代語私訳『福翁百余話』第十二章 「思想における中庸」



人間は、衣食が満ち足りて、すでに安心できる状況に至ったとしても、さらにその上に欲しいものが必ず生じてくるものです。
衣服や食べ物によって飢えや寒さを免れたならば、さらに今度はその衣服や食事を良いものにしたいと思うように、一を得たら二を求め、二に達したら三に進み、どんどん上へ上へと向かって際限がありません。
このことを、この暑苦しい世界においては、野心や欲望と呼んでいます。


一見、非常に厭うべきもののようですが、本当は決してそうではりません。
人間の持って生まれた性質に、この野心や欲望があればこそ、いわゆる文明の進歩も見ることができるものでしょう。
世界の歴史が始まって以来、今のように人間の文明や学問が盛大になったのは、野心や欲望の賜物だとはっきりと言えます。


さて、その欲望とは、いったいどのようなものかと尋ねるならば、動物と同じこの肉体の欲望がありますし、とても気高い精神的な欲求もあります。
知識人や学者が読書し推理し勉強したりすることもありますし、政治家が国家に関する事柄の運営に苦労し、商工業に従事する人が営利活動や実業に熱中し、貧しい人々が肉体労働に従事することもあります。
これらはすべて、人間が持って生まれた欲望や欲求に促されているものです。
そして、欲の姿には、上品なものと下品なものの区別があることでしょう。
もしも、同じ人間である他の人々に害を与えるような、法律や道徳に違反した行為を行わないのであれば、その限りにおいては、さまざまな欲はどれも皆持って良いものです。
もちろん咎めるべきものではありません。
しかし、大事なことは、ただ欲のバランスを失わないということにあります。
昔の人が言った「中庸」ということは、こうしたことを意味していることでしょう。
知識人や学識ある人が注意すべき事柄です。


たとえば、人間の習慣としてならば、酒を飲むこともかまわないもので、酒は百薬の長と言いますし、酒を食事の補助品として用いる時は、自然と良い効果がないわけではありません。
しかし、がぶ飲みして酔っ払い、他の食事と比較してバランスを失っているならば、良いものではありません。
すでにバランスを失っているならば、害があるのは酒だけには限りません。
さまざまな野菜や肉などの食事のどれも皆、同じであり、なんの毒もないと言われるお米の御飯であっても、ただお米だけを食べ過ぎるならば毒のあるものとなることでしょう。
ただ、食事に関するものだけでなく、知識人や政治家の人々が過度に心を働かせ、身体の運動を怠り、気持ちの落ち込みを発散させる喜びを忘れて、ついには病気にかかって短命に終わってしまうようなことも、人生の苦労と喜びのバランスを間違えたという罪があります。


また、最近の、今の大金持ちの人々に関して、そうした類の事例を示しましょう。
商工業のビジネスの世界の才能ある人物が、熱心に経営して利益を図っていることも、人間の欲によって起こっていることであり、もちろんあって良いことです。
その経営が適切で、成功して、家や会社が大きくなることは、さらに大変素晴らしいことです。
さて、そのように自分も会社も成功した後にも、また持って生まれた欲望や欲求、つまり物事を好む心はさらに止まるところを知らず、さまざまなことを考え、実行することもあることでしょう。
もちろん、それらはそれぞれの人の自由であって、傍から口をはさむべきではありません。
とても見事な邸宅や庭園、めずらしい絵や書や骨董品のコレクション、友人を集めて季節の風物を楽しみ音楽を演奏して遊んだりするようなことは、どれも上流の人々の静かな趣味や娯楽であり、大変素晴らしいことです。
ですが、それらの物事の本当の姿を調べるならば、結局、自分自身や自分の家の中のことに属しており、単に自分の物事を好む心を慰めるだけのことに過ぎません。
もしも、その人物が、さらに視野を遠大にして、家の外の言葉までもよく観察して把握するならば、苦労することにも財産を使うことにも、さらに物事を好む心を満足させる非常に広い範囲を見つけ出すことでしょう。


たとえば、宗教活動に援助をしたり手助けをして人々の道徳心を維持することや、学校に資金を援助したり寄付して教育を奨励すること。
あるいは、病院を援助したり貧しい人のための医療に寄付をすることなど。
そうしたことは数限りなくあります。
それらの事柄は、金持ちの人々にとって、心を働かせ、財産を使って、成し遂げた事績がとても大きくなるものを見つけることができるもっとも素晴らしい場所です。


自分の家族の内部において富み栄えることも、家の外の公共の利益のために努力することも、どちらも自分の生活だけのことよりも以上のことであり、必ずしも人に促されることではありません。
俗に言えば、人の道楽ということでしょう。
すでに道楽であるならば、自分の家族だけの道楽と、家の外の公共のことに関する道楽とが、相互にバランスがとれて中庸を得て、はじめて社会にとっての素晴らしいことと言うことができます。


しかし、今、現実を見るならば、金持ちの人々が立身出世し成功しても、自分の趣味にばかり熱中し、さまざまな衣服や食事や邸宅や庭園などのことのためにばかり努力し、時には一千万円ぐらいの大散財をして一時の快楽をほしいままにしながら、社会の公共のためのことと聞けば百万円の出費もけちるものです。
それだけでなく、自分の家の子どもたちへの教育にお金を惜しむ者さえいないわけではありません。
お金の使い方がバランスを欠いていることが、非常にひどいと言えます。


なおひどい事例もあります。
まぎれもなく西洋の学問を学んでいる世界の人が、国内でも勉強し外国にも留学し、学業を成就して、それから次第に頭角を現して、相当な地位を得て、立派な家を成したとします。
以前は貧乏で万事思うままにならなかったとはいえ、今はかなりの財産もあり、必ず何か学問や教育の物事に尽力することもあるだろうなどと、世の中の人々がひそかに予想していました。
しかし、それとは逆に、この西洋の学問を学んだ人物の懐具合がだんだんと潤ってくるのと同時に、次第に趣味に熱中するようになり、古い物を尊んで、骨董品の古い器や書や絵画を集めたり、生け花の優美さを愛でたり、茶の湯の閑雅さを愛したり、高尚な能や謡曲、風流な義太夫などを愛したりするようになります。
これらのことは、日本独自の芸術でもあり、これらを西洋諸国の殺風景なことと比較すれば、とても比較できない素晴らしいことだなどと言って、良い年をして分別もあるはずの大人が、子ども遊びに熱狂して、ひそかに文明の極意を気取ったりしていることこそおかなしなことでしょう。


思うに、彼らの文明に関する考えや思想は、だんだんと良いところまで上りつめて、実際は逆に良いところを通過してしまい、微妙なところの中でも微妙なところまで達して、あげくのはてには微妙なかすかなところら辺で消滅してしまったというものなのでしょう。
学問への思いがすでに消滅し去ってしまたのならば、読書や研究への思いもまた自然の結果としてなくなり、そうした人物の近況をうかがうと、最近はともかく忙しくて西洋の書物を読んだりする暇がないなどと言います。
そのようであっては、広く世の中の学問や教育に心を寄せて、学問や教育の道の推進を図るようなことはほとんど他人事になってしまい、今はもう身も心も両方とも学問や教育の世界を離れ去ったと言われても仕方ない状態になっています。


(欧米社会の立派な人物は、激務に忙しいその多忙な生活の中で、なお本を読み哲学や科学に考えをめぐらし実践し、世の中のために尽くすことが常です。
昔、アメリカのフランクリン(アメリカ独立戦争期に活躍した政治家・科学者・著作家。建国の母と呼ばれる)は、アメリカ独立の前後の騒乱の中で、科学上の発明を行って学術や社会に貢献し、今のイギリスのグラッドストーン(19世紀イギリスの代表的政治家)は八十才の身でありながら政治とは関係ない宗教に関する著作を書いたことがあります。
さらに庶民に下っても、取引所の仲買人が教育についての議論を論じたり、服飾のお店の主人が物理についての著作を書いたりするようなことは、特にめずらしいという話ではありません。
結局、文明の国の人の胸中には余裕が存在していて、若い頃からの学問や教育への思いは常にその身を去らないと言えます。)


ですので、日本における上記の人物が若い時から努力して修めた西洋の学問は、ちょうど昔気質の東洋の男性に西洋文明のメッキをしたのと同じで、その身を政府や民間の実務の世界に投じて世俗的な事柄に磨滅されれば、メッキはたちまちはがれて本来の古臭さを放ち、その匂いがひどくて人の吐き気を催すのも仕方がない状態でしょう。
このように言ったからといって、私たちも同じ日本の国民であり、もちろ何かも日本の古くからのものを排斥するわけではありません。
昔からの古い物事の中には、もちろん取るべきものがあるのはわかり切ったことであり、このあたりに関する取捨選択の大切さを知らないわけではありません。
しかし、新しく開国したばかりの日本は、今はまさに新しい文明のための工夫努力に忙しく、この新しい西洋文明をリードしてあらゆるところに至らせることは西洋文明を学んだ知識人や学識ある人の天から授かった仕事であり、生涯を賭けた力によって真一文字に進んでも、なお及ばないことを心配している大切な時期なわけです。
しかるに、この大切な時に、知識人や学者たちが進歩のための苦労に耐えきれずに途中で挫折し、かえって自分から子ども遊び戯れを演じるようなことは、思いや考えにおけるバランスを欠いており、物事においてどちらを早く進めるかゆっくり進めるかということ、および物事の価値の重さと軽さの問題を、とり違えていると言えます。