現代語私訳『福翁百余話』第十三章 「人と付き合う方法は簡単ではありません」

現代語私訳『福翁百余話』第十三章 「人と付き合う方法は簡単ではありません」




一つの言葉をどう用いるかということは、非常に大切なことです。
場合によっては、率直な言葉で礼儀を欠いていることが、かえって人を喜ばせることもあります。
場合によっては、わざわざ丁寧にしたことが、かえってお客にとって不愉快となることもあります。
現実に何も利益となることがないのに、他の人を一喜一憂さたりすることは、智恵ある人がすることではありません。
立派な人物が注意すべき事柄です。


今はもう昔のこと、四十数年前のことになります。
私・福沢諭吉が二十三歳だった頃、大阪で勉強している時のこと、豊前(大分)の中津に帰省して丸一か月滞在し、まさに再び大阪に勉強しに行こうとするにあたって、ある同じ中津藩の藩士の家を訪ねて別れのあいさつをしたことがありました。
その時、その藩士は上級武士のお年寄りの人で、よもやま話が終わり、それではと席を立つときに、その主人が言葉を改めて言うには、
「お前も大阪で勉強し、今また再び勉強しに行くとは感心なことである。今日は破格の礼として玄関まで送ってやろう」
と言って、玄関先のところまで送りにきました。
たぶん、その主人は、中津藩の中でも上級武士の一族で、下級武士の若者の客を玄関まで送るのは中津藩の家風においては本当に破格の特別の礼儀なので、大いにもてなしたという意識だったのでしょう。
しかし、私・福沢諭吉はありがとうとも何とも言わずに別れを告げて、帰り道は不愉快さを我慢することができず、
「中津藩のルールで上級武士が目下の人間を見送る習慣がないならば送らなくてもいいのに。今日はわざわざ例外的に送っているのだと言って、これぐらいの馬鹿げた振る舞いを演技しても、この諭吉の身の価値を左右することはできない。要するに人を愚弄した振る舞いだ」
と心の中に思って、その出来事についてはもちろん他の人には言ったりせず、家に帰ってからも母にも語りませんでしたが、自分では不満に思って心が穏やかでなく、さまざまに考えたことがありました。


また、東京において明治三年に、私・諭吉が非常に激しい熱病にかかって、幸運にも回復したことがありました。
その後、医者の先生をはじめ、面倒をかけた親友たちを招待し、宴会の席を設けて病気の間のはかりしれない厚意に感謝しました。
飲みながら歓談してとても楽しかった時に、その医師の先生が言うには、
「このたびのご快復は本当にめでたいことです。私が岩倉様(岩倉具視)に毎回診察にお伺いする時には、岩倉様も御主人の病状をお尋ねになってとても御心配されている様子でした。ともかく、今をきらめく高貴な身分の方にまで病状の安否を心配されるとは、本当に名誉な事柄でございます。」
云々と述べたてました。
それを聴いて、病みあがりの諭吉は心の中でむっとなって腹が立って、
「岩倉とはそもそもの何者だ、まだかつてお互いに会ったこともない人だ(その後は何度も会ったこともあったのですが、病気の前には一度も会ったことがありませんでした)。見たことも聞いたこともない他人が、この身の病気に関して噂をしたからといって、それが名誉とは何事だ。結局、何の節操も気骨もない医者が、時の大臣の一言を金や宝石のように崇拝している自分の性根によって私も喜ぶだろうと憶測しているだけだ。聴くもけがらわしい。」
とあえて口には出さずに、表情にも現さずに、その場は済みましたが、大勢の人がいるその席の中で主人である私ひとり不愉快を感じたことがありました。


以上の事は、私・福沢諭吉が若かった頃のことであり、今から静かに考えるならば、必ずしも相手を咎めるほどのことはなく、そもそもその人の悪意でないだけでなく好意に出たことであって、それを怒る人こそかって良くないことです。
しかし、若者の血気はこのように穏やかであることができず、少しでも心に納得がいかなければ怒るのが常です。
私・諭吉は幸いにもその怒りをぐっと飲み込むことがいつものことだったので、かつて他人と争論したことがありませんでしたが、怒りを心の中にぐっと飲み込むのも外側に怒りを現すのとどちらも関係なく、人間の感情は本当に思ってもいない微妙なところで動くものです。
ですので、人と付き合う方法は簡単ではないと言えるものです。