進歩改良ということについて

ひさしぶりに福翁百話を読み返してみた。
やっぱり福沢諭吉はすごい。
この気宇壮大さ。
人類の歴史を、六千年前から見つめ、今後六千年後を視野に入れて、今を見ること。
なかなか、できない視野の広さと懐の大きさと思う。
現代語私訳『福翁百話』 第三章「天の定めたことは人間にとって道理にかなっている」http://d.hatena.ne.jp/elkoravolo/20110801/1312207823


福翁百話を読んでいると、福沢諭吉は世界の改良進歩を確信している。
現代の我々はなかなかそれが信じられない。
むしろ、人類や地球について、終末論的な見解や雰囲気を、随分と私たちは小さい頃から吹き込まれ続けてきた。


とはいえ、いつの世もそんなもので、その中で、どれだけ改良進歩について信念を持ち、そのために努力できるかどうかが大切なのかもしれない。
幕末も、明治も、実際は随分と悲観的な意見ややけっぱちの雰囲気もあったろう。
そんな中で、福沢諭吉伊藤博文のように、進歩や改良に信念をもち、自信を持ち、努力し続けた人々が、新しい時代をつくったのだと思う。


近代に限らず、いろんな時代においても、大体そうだったのだと思う。
以前、源頼朝(といわれる)国宝の肖像画の実物を見た時に、その明るくて明朗で自信に満ち溢れた姿に本当に感銘を受けた。
当時も、末法の世だという考え方や雰囲気が蔓延していたことだろう。
その中で、あの絵が頼朝とすれば、頼朝は末法など全く思わず、確固たるビジョンと自信を持っていた。


今の世の人も、どれぐらい、そうした人が多く出るかどうかによるのかもしれない。


不平不満や文句や、単なる悲観論や嘆きよりは、我々には進歩や改良ができるのだという自信を持って、愚痴よりも自分のできることから一歩一歩各自が進んでいくことこそ、少しでも日本が先に進むためには何よりも大切なのだと思う。
そして、そのような姿勢こそ、源頼朝福沢諭吉伊藤博文ら、我々の先祖が身をもって実行してきた、日本の最良の精神であり、伝統なのではなかろうか。