伊藤博文の命日に思う

今日は伊藤博文の命日。
惜しかったなぁと思う。


伊藤博文日露戦争の回避も最後まで全力を尽くしたし、日韓併合も極力回避し、朝鮮の文化にも敬意を払っていた。
政党政治文民統制のためにも全力を尽くしていた。
当時も今日も、誤解が多いのが気の毒な人物と思う。
政治的力量は歴代首相最高峰だったと思われる。


歴代首相の年齢の一覧を見ていて、あらためて驚いたのだけれど、伊藤博文は四十代半ばで首相になっている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E9%96%A3%E7%B7%8F%E7%90%86%E5%A4%A7%E8%87%A3%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7 
戦後の首相は六十代以上が多い。
五十代首相は、田中角栄や安倍さん、そして野田さんなど、わりと少ない。
(参考:石原慎太郎・八十才。小沢一郎・七十才。菅直人・六十六才。安倍晋三・五十八才。野田佳彦・五十五才。橋下徹・四十三才。(敬称略))


だが、四十代半ばで首相になったとしても、それまでに伊藤博文が積んできた場数や経験は並外れたもので、おそらくその時点で、今の日本の四十代の人々とは格段の政治的力量や経験を積んでいたろう。


伊藤博文はわずか半年ぐらいのイギリス滞在でほぼ英語を習得している。
その集中力とタフさや柔軟性になにせ驚かされる。
わずか半年のイギリス留学を、長州が四カ国連合艦隊の砲撃を受けたニュースに驚いて急遽切り上げて帰国してからは、高杉晋作とイギリス軍の交渉の通訳をしているのだから、たいしたものと思う。
その後、明治になってからアメリカに渡っても、わりと自由にアメリカ人たちとコミュニケーションをとり、トクヴィルの本の英訳を読んだりしていたというから、その集中力と能力はともかくすごい。


伊藤博文は、その柔軟性や進取の精神がすごいと思うが、何よりも感心するのは、常に現実を見据えつつ進歩や理念を実現しようとした姿勢だと思う。
その姿勢は、言うならば、現実的理想主義、あるいは理想的現実主義と呼べると思う。
伊藤博文は、後年の回想では長井雅楽をとても高く評価し、吉田松陰よりもむしろ長井の方を高く評価していたようだ。
長井雅楽も、伊藤博文も、先見の明があり、現実的だった。
いつの世も、本当は長井や伊藤のような現実的理想主義、あるいは理想的現実主義こそ必要と思う。


おそらく、単なる理想主義ではない現実主義とは、現実に責任をもって格闘する中で培われるのだと思う。
伊藤博文は、漢詩の中で、「辛苦経営す、方寸の中」、つまり心の中で呻吟し苦しみながら国家の重責を担っていることを他の人は知らないだろう、という意味のことを言っている。
いつの世も外野は気楽に適当なことを言えるが、当局者の重責と苦労というものは、外野の想像をはるかに超えるものなのだろう。


そういえば、もうずいぶんと昔、伊藤博文の生家がある場所に行ったことがある。
生家の建物はあんまり記憶にないのだけれど、たしか産湯につかったという井戸の跡があった記憶がある。
伊藤博文も、当たり前の話だけれど、人の子で、両親の大きな慈愛や願いによって生まれ育ったのだろう。


安重根には、彼なりの大義や思いがあったのだろうし、心情としては純粋だったのだろうけれど、伊藤博文のことについて一体どれぐらい安重根は正確に知っていたのだろうかとは思う。
供述を見ると、伊藤が孝明天皇を暗殺したと思いこんでいたり、どうも誤解も多かったようでもある。


もし、安重根が伊藤についてもっと正確な知識や理解を持っていれば。
そのために、なんらかのコミュニケーションの機会があれば。
ありえない空想かもしれないけれど、安重根がもし直接、伊藤博文と会って話す機会があれば、あるいは歴史は大きく変わっていたのではないかと私には思える。
もちろん、困難だったのだろう。
安重根ら、当時の朝鮮の人々には、日本はとても聴く耳を持たないと思われていたのかもしれないし、実際そのような側面もあったのだろう。
ただ、対話ではなく、暗殺という手段がとられた場合、理由は何であれ、双方に大きな損失がずっと残ると思う。


ソウルタワーのすぐ近くにある安重根の記念館にも、昔行ったことがある。
「東洋平和」「民族の正気」と書かれている部分は、漢字で書いてあったので私にも意味がわかった。
たぶん、主観的には安重根も東洋の平和を志していたのだろうと思う。


安重根は今も韓国では英雄だそうだし、たしかに民族の矜持や愛国心を示したという面はあったのかもしれないけれど、東洋の平和、あるいは世界の平和という観点から言えば、伊藤の暗殺はどういった効果があったのだろうか。


伊藤博文が長生きしていれば、第一次大戦に際して、日本はもっとなんらかの長期的なビジョンに基づいた行動やメッセージを発することができたのではないかと私は思う。
それを思うと、なんとも残念でならない。
伊藤の同世代の長州の元老たち、たとえば井上馨は一次大戦勃発直前まで生き、山縣有朋は一次大戦後まで生きたことを考えると、暗殺さえなければ伊藤がその時期まで生きていたことは十分ありえたことだと思う。


日本は、第一次世界大戦に際して、漁夫の利を得るか、火事場泥棒ぐらいの発想しかあまり持たず、なんらの国際秩序構想を持たなかった。
日本のその後の悲劇の遠因はそこにあった。
伊藤博文が生きていれば、かなりその点は違っていたのではないだろうか。
一次大戦列強諸国の和平仲介さえもできかもしれない。


井上馨は、第一次世界大戦の勃発に際し、日本にとって「天佑」と言った。
まだあのとてつもない悲惨さがよくわからない時点だったとはいえ、第一次大戦の悲惨さを思えば、なんとも罰当たりな、想像力を欠いた発言だったと思う。
とはいえ、それが当時の日本人の多くの心情だったのだろう。
同じ長州の盟友といっても、井上馨と伊藤とでは構想力や政治的力量に随分差があった。
伊藤があの時にいれば、もっと違った発言や行動があったと思う。


たぶん、日英同盟によって一次大戦でイギリス側に参加したことは、日本にとっておおむね妥当な、まっとうな判断だったのだろう。
それをどうこう言うつもりはないし、おそらくはそれ自体は正当な判断だったのだと思う。


ただし、仮に日本がもう少し、第一次大戦後の国際秩序に構想力を持つならば、二十一カ条要求などせずに、徐々に穏健な形で中国における不平等条約の撤廃や機会均等に政策をシフトさせ、国際連盟についても五大国の一つとしてもっとビジョンや理想を提起することもできたのではないか。
伊藤はそれぐらいの先見の明はあったと思う。


もっと妄想を逞しくするならば、第二次世界大戦でいきなり東亜の解放などと言うよりも、一次大戦時点でドイツと組んでアジアの解放をぶちあげていれば、世界史に対するインパクトは計り知れなかっただろう。
とはいえ、まだ日本は貧しく一次大戦でやっと工業国になったのだから、まず無理だったろうし、現実主義的な伊藤はとてもそんなことはやらなかったとは思う。
しかし、ドイツとの関係も深かった伊藤は、ひょっとしたら安易な参戦よりも、中立を目指したかもしれない。
そうすれば、当然、日本は青島の利権や南洋諸島も得ず、したがって米英との一次大戦後の衝突も起らず、場合によっては日英同盟の存続も可能だったし、アメリカとその後ずっと協調してやっていけたかもしれない。


第一次大戦の時に、アメリカはツィンメルマン電報事件が大騒ぎになったぐらいだから、彼らが一番恐れていたのはドイツと日本とメキシコが提携して、連合国に牙を剥くことだったのだろう。
ありえないことだったけれど、それぐらいアメリカが日本を潜在的に敵視し、危険視していたことは、一次大戦時点でも理解することができたはずだった。


伊藤の死は、一次大戦での日本の行動や構想力について考えると、あらためて惜しすぎたと思う。


プリンツィプも安重根も、その国では英雄ということになっていて、それについてはそれなりの事情もあるんだろうけれど、後世として、できる限り、お互いにテロや戦争ではないやりかたで物事を解決することが、彼ら自身や彼らの犠牲になった人々も含めて、本当に敬意を払うことなのではないかと思う。


安重根伊藤博文の、双方について、後世のそれぞれのお互いの国の人が、そろそろ深い理解を持つようになれたらと思う。
大事なことは、双方に敬意を払いつつ、二度と言葉ではない暴力によってお互いに解決を図ることがないよう、地道なコミュニケーションを積み重ねることなのだろう。


ネット上に、伊藤博文の名言として、「本当の愛国心とか勇気とかいうものは、肩をそびやかしたり、目を怒らしたりするようなものではない。」という言葉が紹介されていた。
出典がちょっとよくわからないけれど、本当にそのとおりとだと思う言葉だ。


そういえば、伊藤博文は宮島・厳島をとても信心していたらしく、たびたび渡っては参籠したり参詣していたそうだ。
私もまた宮島に行きたいなぁと思う。
今度は、弥山をゆっくりまわってみたい。
伊藤の志や目指したことを、今の後世の日本人が、いったいどれだけ本当に理解できているのかも、もう一度問い直してみるべきことのように思う。


伊藤が今の日本の憲政のありさまを見たら、いったいどのような思いを懐くだろうか。