雑感 伊藤博文と安重根について

安重根:「英雄視」韓国と「反発」日本が応酬 深まる溝
毎日新聞 2013年11月19日

http://mainichi.jp/select/news/20131120k0000m010045000c.html




安重根銅像を中国に韓国がつくる計画があるということがニュースになっていた。


官房長官は遺憾の意を伝えるとともに、安重根を「犯罪者」だと述べたそうである。
韓国国内ならばともかく中国に安重根銅像を立てようとする韓国政府には疑問だ。
しかし、安重根を犯罪者と呼ぶこともちょっとどうかと思う。
両国政府とも、相手に対する慮りは欠如しているようだ。


今もって、伊藤博文安重根のことは、日韓の間でデリケートな問題となっている。
百年経っても、未だに消せぬ傷であり、両国のもつれた運命の糸は未だにほどけずにいる。


私自身は、伊藤博文安重根も立派な人物だったと思う。
山口にある伊藤公資料館や生家にも行ったことがあるし、ソウルにある安重根の記念館にも行ったことがある。
両人とも、知るほどに、立派な人物だったと思う。


ただ、そのうえで、なんとも惜しいと思われることは、伊藤博文は当時の明治政府内部では相対的に穏健派であり、安重根の憎むべき相手はむしろ他にいたのではないかと思われる点だ。


統監府は内政外交が対象であり、軍事について出動命令権はあるものの、具体的な指揮は軍にあった。
仮に当時起こっていた義兵闘争に対する日本軍の鎮圧に対して安重根が復讐を考えたとしても、その怒りを伊藤に向けるのはいささか不適当だったように思う。
当時の朝鮮に駐留する陸軍のトップは長谷川好道で、伊藤博文とは仲が悪く、伊藤は文治政策を、長谷川は武断統治を主張していた。
そうしたことから、1908年には伊藤は事実上長谷川を更迭した。
また良民に危害を加えないよう、伊藤は軍に訓戒を与えていた(伊藤之雄伊藤博文』545〜546頁) 
長谷川ら武断統治派に対し伊藤はむしろブレーキをかけていた存在だった。
伊藤は韓国統監を辞職する間際まで、日韓併合に反対していた。
最終的には、政府部内の他の声に押し切られ、併合に反対しきれなくなったが、その時点で統監を辞している。


それらの歴史をどう受けとめるかは、難しいものだが、たとえて言うとこんなことが言えるのではないだろうか。
イラク戦争においては、パウエル国務長官は政府部内では最後までイラク戦争に反対していた。
もし、アラブの若者が、ブッシュやラムズフェルドではなくてパウエルさんを暗殺するとすれば、それは大変な悲劇ではないか。
安重根による伊藤博文の暗殺は、たとえればそんなものだったのではないかと思う。
大まかにいえばその一員であり、責任があると言えば言えるかもしれないが、いつの世でも、与えられた状況の中で相対的に穏健な道を模索する良識派はいるものである。
彼らの苦慮は後世からはえてして見えにくいものだ。
後世からのみでなく、同時代においても、しばしば見えにくいものかもしれない。


閔妃暗殺事件は、伊藤は関与していないが、その時の首相ということで、どうも憎まれたようである。
また、安重根孝明天皇暗殺も伊藤博文のしわざと勘違いしていたようであり、伊藤の罪状として挙げている。
どうも甚だ誤解が多かったように思われる。
伊藤も大雑把にいえば、朝鮮からすれば「日本帝国主義の一員」だったのだろうけれど、相対的に山縣有朋や長谷川好道らよりはずっと穏健派であり、韓国の文化に対する尊重や敬意も伊藤は強く持っていた。
仮に安重根が日本の帝国主義に対して強い怒りと抗議を示したかったとして、その対象が伊藤だったことが妥当だったのか、私には疑問に思えてならない。


伊藤博文日清戦争日露戦争に際しても、最後まで戦争回避を主張し、平和の道を模索していた。
また、憲法や議会政治のために努力し、なんとか政党政治を日本に根付かせようとしていた。
さらに、山縣有朋らの軍部をなんとか統制するために、シビリアン・コントロールの確立を模索し、苦慮していたことが近年の研究では指摘されている。
朝鮮半島においても、将来的な自治を見据え、基本的には併合に反対し、保護国としたうえで朝鮮の近代化を推進するスタンスだった。


戦後の日本でたとえると、伊藤博文派は宏池会みたいなもので、山縣有朋派が清和会みたいなものだったのだと思う。
同じ穴のムジナと言えばそのとおりだが、相対的に平和や穏健な政策を志向したのが伊藤であり、もっとガチガチの軍国主義だったのが山縣らだったと言えると思う。


伊藤の死後、日本は大逆事件が起きた。
伊藤が生きていれば、また違っていたのではないかと思う。
また、大正に入って、第一次大戦勃発時も、どうも井上馨大隈重信らは甚だ皮相な浅い対応ばかりで、その時の結果がのちの日本の破滅につながっていったように思えるが、伊藤が生きていれば、もっと違った対応が第一次大戦に際しても日本にはありえたのではないかと思う。
年齢的に言えば、大隈や井上が生きていたのだから、伊藤も暗殺されなければ十分生きていた可能性は高い。


伊藤博文の復元された生家の裏には、伊藤博文が産湯に使ったという井戸があった。
おそらく、伊藤博文も、百姓の貧しい家に生まれた時は、両親ともに喜んだのではないか。
当たり前の話だが、殺されて良い人間などいるはずはないし、生まれてきた時はなんらかの形で望まれて生れてきたのだと思う。


もっとも、それは伊藤だけではなく、朝鮮の当時の人々にも当てはまることで、伊藤は相対的にその中でなんとか穏健な道を模索していたとしても、主権を失っていくことに抵抗し、その中で殺されることもあった韓国の人々の恨みが日本に向かっていたのも事実だったのだろう。


伊藤博文は若い時に、塙忠宝という国学者を誤解から暗殺している。
後年、伊藤はその罪を非常に悔いていたそうだし、塙忠宝の息子に対して異例の抜擢人事を行ったりしているそうだが、人間の罪業というのは、必ず報いがずっと時が経っても飛んでくるものなのかもしれない。


私は、伊藤博文安重根に狙撃された時に、「バカなやつだ」とつぶやいたというエピソードが、どうも塙忠宝のことを思い出して自分自身に対して述べたアイロニーのこもったつぶやきだったように思えて仕方ない。


伊藤博文の死は、若い時の自分の罪の報いだったとしても、なんとも惜しいことだったように思われる。
伊藤の側近でかつ女婿だった末松謙澄が、堺利彦の自伝の中に少し出てくるのだが、なんとも興味深い、おおらかな人間らしい人物だったように思われる。
末松がそうだったように、伊藤もまた、当時の明治政府の中では、最も人間らしい一面のあった人物だったと思う。
伊藤や末松らがいたから、明治政府はのちの時代に比べて、はるかに穏健で良識があり、人間味があった。
彼らがいなくなり、力を失っていった時に、だんだんと日本は狂い始めたような気がする。


もっとも、それは少し伊藤の存在を大きく言い過ぎで、伊藤の死後も、大正デモクラシーはそこそこ良識的な、穏健な、良い政治の時代だったと言えるのかもしれない。
しかし、原敬も、伊藤が生きていれば山縣有朋との関係にあそこまで苦労しなくても済んだかもしれない。


伊藤は、皇太子時代の大正天皇と李王室の世子の李垠らを引き合わせ、日本の皇室と朝鮮の王室の友好に努めた。
大正天皇はその結果、李垠をとてもかわいがり、自らハングル文字を勉強したり韓国語を独習していたそうである。
しかし、日本のその後のあり方があまりにも重荷となったのか、大正天皇自身も精神的に追い詰められて病んでしまった。
伊藤が生きていれば、大正天皇もあそこまで追い詰められることもなかったと思うのは想像が過ぎるだろうか。


安重根はたしかに立派な人物であり、牢獄において世話をした日本人の看守が深い感銘を受けて惚れ込むほど、個人としては清廉で祖国愛に貫かれた人物だったのかもしれない。
東洋平和論を書いているように、偏狭な一国主義ではなく、主観的には東洋の平和を願っていたのだろう。
また、当時においては、なんらかの手段によって日本に抗議するには直接行動しかないと思わざるを得なかったのかもしれない。
しかし、伊藤を暗殺した結果は、多くの運命を狂わしてしまい、かえって韓国自体にとっても不幸なことだったように思うし、日本にとっては実に不幸な影響が生じたと思う。


結局、テロは何一つとして良い結果は長い目で見ればもたらさないのではないか。
いかに動機が純粋であれ、テロはどうしても狭い視野に基づいているものではないか。


そんなことが、私には思われてならない。


ただ、後世から見た時に、一つ言えることは、伊藤博文安重根も不憫であるということだけだ。
もういいかげん、日本も韓国も、お互いに慮りを持たない態度はあらためて、両者ともに不憫であったと見る心の余裕や達観を持ちうるだけの時はすでに流れているように思う。