島村志津摩について

幕末の歴史は、だいたい薩摩・長州・土佐や、あるいは幕府や会津の有名な人物が中心になって語られるので、その他の人物はあんまり一般的には語られないことが多い。


小倉藩の家老の島村志津摩も、たぶん福岡の人がいくばくか知るぐらいだろうと思う。


ただ、私は以前、島村志津摩についての本を読んで、こんな人物がいたのかととても感動したことがあった。
福沢諭吉が言うところの「瘠我慢の精神」を最も具現した人物と思う。


島村志津摩は、小倉藩の家老職の家に生れ、家老になったが、もともとは母親が長州の家老の家から来ていたこともあり、親長州で、どちらかといえばあまり幕府に過剰に肩入れして朝廷や勤王藩と摩擦を起こさないようにすべきという立場だったようだ。
かつ、藩政の立て直しを目指した改革を行おうとしたこともあり、幕府支持の守旧派と対立して、途中からはほとんど閑職に回されていた。


第二次長州征伐が起り、幕府の大軍が長州攻撃のために終結すると、小倉城はその本陣となった。
島村志津摩は、兵力の多い幕府方が機先を制して長州に積極的に上陸し、先制攻撃をしかけるべきだと主張したがその意見は却下され、幕府の首脳はいつまで経っても悠長に構えていた。
理由は、長州が戦わずして降伏することを幕閣は狙っていたらしい。


しかし、長州藩は逆に積極攻勢に出て、あちこちで幕府の大軍を打ち破り、幕府軍の指揮者だった老中は自分だけ船で大阪に逃亡。
諸藩の軍隊はことごとく撤退して、小倉城まで長州の軍勢に占領されて炎上という、実に無様な負け戦となった。


この時、小倉藩は運悪く、二十代だった藩主が第二次長州征伐の直前に病死しており、まだ四、五歳の幼君が君主となっていた。
一応、小倉藩はそのことは外部に隠していたが、長州は十分その内情は知っていたらしい。
にもかかわらず、最初に小倉藩が和睦を申し入れた時の条件は、世継ぎ(つまり本当はすでに藩主)を人質として長州に送ることや、領土の割譲など、過酷なものだったらしい。


その時に、敗残の兵をまとめあげたのが、島村志津摩だった。
それまで実権を握っていた家老の小宮民部は失脚し、切腹したので、誰も指揮をとるものが他にいない中で、よく敗残の兵をまとめ、幕府も諸藩も見捨てた中で、単独で小倉藩の兵を率いて長州の軍勢と戦闘を続行した。


長州の軍勢は、小倉城が落城した後、小倉の藩主とその一行が逃げた豊津のあたりまで軍隊を送ってとらえようとしたが、金辺峠において島村志津摩が率いる軍勢が反撃に出て、夜間の攻撃やゲリラ戦を展開して、あちこちで長州の軍隊を撃破した。


その一方で、粘り強く島村志津摩は、のめる条件での長州との和睦を交渉し続け、結果として、幼君を人質に出す必要はなく、領土の割譲などもない条件での和睦が成立した。


その後、島村志津摩は、一方では西洋人の教師を雇って藩校をつくり教育に力を入れる一方、長州や薩摩と協調路線をとり、戊辰戦争でも官軍の側に一応の援軍を送って小倉藩が新政府によって滅ぼされないように苦慮し続けたという。


明治後は、何の官職にも就かず、炭鉱の開発を行って失業した士族の生活の糧にしようと目指したが、士族の商法で見事に失敗し、多大な借財を負い、晩年は不遇で貧しい生活だったそうである。


人間の人生というのは、うまく軌道に乗って、成功する人々もいる。
長州や薩摩においては、本人はさほどの人物でなくても、西郷や木戸にくっついていたために、大きく栄達し出世する人物も随分多くいたようである。
一方、めぐりあわせによって、大きな志や能力を持ちながらも、必ずしも成功することもなく、損な役回りを負わされる人もいる。


しかし、本当は後者のような人が、なんらかの絶体絶命の時において放った輝きのようなものこそが、本当に後世を照らすものなのではないかと思う。


劉寒吉という、これまたあんまり福岡の人以外には知られていない作家が、『山河の賦』という島村志津摩を描いた小説を昭和の初期ごろに書いている。


その中で、島村志津摩は、長州に反撃に出る前に、以下のような演説を言う。
これはもちろん、劉寒吉のフィクションだろうし、記録には残っていないのだろうけれど、おそらくこのような心持だったこと、そしてこのような言葉をおそらく全軍に檄を飛ばしたであろうことは、たぶん間違いないと思う。


「自分の力を信じよ。
決して負けない自信を持て。
諸君とても同じ日本人ではないか。
しかも、我らは勅を受けた幕命によって戦う。
これは一藩の私戦ではない。
大義の戦いである。
しかし、その力が個々に分散してはいかん。
力の分散は、戦争の敗因をつくる。
力は結合されなければならん。」


「勝つも負けるもともに同じ日本人である。
このことは悲しい。
しかし、我等は大義の上に立とう。
大義の道を進もう。
(略)
希望を持とう。
何もかも失い尽くした我等は今こそ小倉武士の真骨頂を現わして顧慮する所なく戦うことができる。
我等は戦う。
我等は失った故郷の山河を奪還する。」



歴史の大きな流れから言えば、おそらくは、小倉藩が長州に果敢な抵抗をしたかどうかはあまり意味がなく、長州が幕府を倒して明治維新を成し遂げたということが、重要な筋であり、大きな歴史の意志で流れだったのかもしれない。
しかし、もしその時に島村志津摩がおらず、小倉藩はただ無様に負けるだけで、幼君も人質にとられるような状況であれば、あまりにも惨め過ぎたし、そのようなことがまかりとおるようであれば、長州自体もどうしようもなく増長し、明治維新後もさらに薩長に権力が偏り、横暴がまかりとおる世の中になっていたかもしれない。
仮に負けるにしても、相手の恣意を許さない程度には反撃して敗けてこそ、のちの時代を何らかの意味で照らす敗北になるのではないかと思う。


おそらく、次の選挙では民主党は敗北し、自民党と維新・石原新党の連立政権ができるのだろう。
それはたぶん、大きな流れとして避けられないことだと思うが、その中で、どれだけ民主党の側に、各地に、島村志津摩や、あるいは河井継之助たちのような人物が現れて、そのような活躍をするかで、またさらに三、四年後の日本も大きく変わってくるのではなかろうか。


そういったことが、ふと幕末の歴史を見ていても、思われる。