■幸村の最期に新説、越前松平家の古文書で発見
(読売新聞 - 02月25日 08:52)
http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20130225-OYT1T00041.htm?from=ylist
小さい頃、真田幸村の漫画を読んだ。
大坂夏の陣の最後の戦いにおいて、敢然と突撃を仕掛け、伊達の軍勢を中央突破し、徳川家康の本陣に突き進む真田幸村。
しかし、多勢に無勢、どうしても群がる大軍を前に、家康の本陣まであと一歩まで来ながら進めなくなると、どこからともなく以前死んだはずの猿飛佐助が現れて道を切り開くシーンは感動的だった。
そこでついに家康の本陣に迫るが、家康は恥も外聞もなく、馬印を倒して幸村に背を向けて馬に乗って逃げ去る。
幸村は追うが、ついに多勢に無勢、力尽きて、最後を遂げる、というストーリーだった。
ところが、どうも、自分から首を差し出したのか、戦死したのか、記憶にない。
新資料によれば、闘って戦死とのことだけれど、それも幸村らしい最後ではないかと思う。
ときどき思うのだが、もし家康が日頃の鍛錬を怠っており、今川義元や竜造寺隆信のように馬に乗れなくなっていたら、この時に幸村に討ち取られており、徳川幕府の歴史は大きく変わっていたのではないかと思う。
また、仮に馬に乗れても、変なプライドがあって、逃げるのが遅れていたら、やはりそうなっていた可能性がある。
やはり、日頃の鍛錬や摂生を怠らず、逃げる時には一目散に逃げる判断力を有していた家康は、たいしたものだったのだろう。
伊達政宗の軍勢は戦国時代でも最強の誉れが高かったらしく、その伊達を中央突破したのは真田幸村ぐらいだったそうである。
伊達の家老の片倉小十郎の息子はこの日の幸村の戦いぶりに深い感銘を受けたらしく、のちに幸村の娘を妻としたそうである。
圧倒的に不利な状況でも最後まで敢闘した真田幸村や後藤又兵衛らと、彼らの奮戦と勇気を敵であっても讃える人びとが当時大勢いたという姿こそ、もともとの日本の武士道と思う。
今の日本にどれだけそういう美風が残っているのやら。