韓国時代劇『王と妃』に斉安大君という人物が登場する。
第八代国王の睿宗の嫡子だった。
なので、本来は王位を継承するはずだった。
しかし、まだその時四歳だったことを理由に、いとこの成宗が国王に即位し、斉安大君は国王になり損ねた。
成宗もその時十三歳だったので、それほど斉安大君と比べて年上だったというわけではなかった。
ただ、成宗の母親の仁粋大妃が猛烈な権謀術数をはりめぐらし、宮中において絶大な影響力を持っていたため、本来は王位を継ぐはずだった斉安大君をさしおいて、成宗が国王になったというわけである。
ドラマの中では、斉安大君は、王になり損ね、屈折して遊興に耽る人物として描かれる。
同じく、屈折して育っている燕山君とは、はぐれものというところでうまが合うのか、ドラマでは燕山君との仲の良い姿が描かれていた。
燕山君は、母親の尹氏が王妃を廃位された上に最後は死に追いやられ、しかもその事実を伏されて育ち、誰からも愛されず、孤独な中で屈折して育つ。
その中で、斉安大君だけは、燕山君が唯一気さくに触れ合うことができる、気心の通う、年上の良い叔父さんのような存在だったようである。
斉安大君は燕山君に張緑水という最悪の悪女を引き合わせたり、なんというか、堕落した王族といった感じでドラマでは描かれる。
ところが、斉安大君は、『王と妃』のラストの方では、それまでの無力な堕落した王族という印象から、急に違う側面を見せる。
最終回の近くでは、斉安大君は燕山君を優しく諌める。
今までのことは仕方なかった。
しかし、これからは燕山君が母親を思うその心で民を慈しむべきだ。
今からでもまだ間に合う。
奸臣を退けて、聖君におなりなさい、と。
それまでの斉安大君からは考えられない正論を述べる。
他の諫言する人間はことごとく切り殺した燕山君も、仲の良い叔父の斉安大君は殺さない。
が、もう遅すぎる、と、自らの悪業に苦しみながらも、燕山君は自分のありかたを修正することはもはやできなかった。
燕山君に対して民の怨嗟と重臣たちの不満も膨れ上がり、やがて何か異変が起こるのではないかという空気が満ちていた時、柳子光が斉安大君のもとを訪れる。
そして、燕山君を倒すことと、燕山君を倒して斉安大君が王位につかないかという話を持ちかける。
柳子光という人物は、邪悪で始終不平不満を抱え、南怡をはじめ多くの無実の人を讒言し死に追いやった人物。
斉安大君がその気になれば、柳子光の話にのって、あるいは王位を簒奪できたのかもしれない。
結果としては、燕山君の弟の晋山大君が、燕山君が倒された後に中宗(チャングムに出てくる国王)として即位するのだが、中宗はその時18歳だったので、もっと年長者だった斉安大君が王位に就く可能性は、本人に力量ややる気さえあれば十分ありえたと思われる。
しかし、斉安大君は、柳子光の要請を断り、自分のような人間でも君臣の義は心得ている、王位を簒奪しようとは思わない、と述べる。
柳子光は人を見誤ったといまいましげにつぶやき、そのすぐ後に、中宗を擁立してクーデターを起こし、燕山君を廃位する。
斉安大君は、その後どうなったのだろうと疑問になり、ネットで調べてみたら、詳しいことはあまりわからないが、燕山君の死後二十三年後になくなっていた。
中宗反正(中宗擁立のクーデター)の時にも殺されず、燕山君が死んだ後も相当長く生きていたらしい。
斉安大君が燕山君の失脚のあとも長生きしたというのは、ちょっと意外だった。
斉安大君は、自らが引き合わせた張緑水や燕山君らが非業の死を遂げた後、どのような気持で生きていたのだろう。
何も考えずに生きたのだろうか。
それとも、さらに屈折した思いか、あるいは諦めの境地で生きたのだろうか。
そこはわからない。
ただ、興味深かったのは、最後の最後で、斉安大君が自らの意志で王になることを拒否したことだ。
一度目はあまりに幼くてまだ自分の意志では決められない時に王になり損ねたわけだが、二度目は自分の意志で謀反には加担せず、あえて王にならなかったわけだ。
ドラマでは、流罪になった燕山君が「容恕」(許し)という文字を書き続け、廃位されたわずか二か月後に流罪先で血を吐いて死ぬ姿が描かれる。
思えば、王になり損ねたのに、そのことにこれといって不平を抱かず、成宗にも燕山君にも謀反を起こさず、特に燕山君に対しては始終仲良く付き合って、燕山君を自分の甥か息子のように慈しんだ斉安大君は、王になり損ねた人物として世間からは軽んじられ馬鹿にされながら、実は最も「容恕」をすでにずっと実践していた人物だったのかもしれない。
そんなことを、ドラマを見終わって数日たってから、ふと気づいて、考えさせられた。
斉安大君が、非業の死を遂げず、わりと長生きできたのは、案外とそんなところがあったからなのかもしれない。
柳子光などは、中宗反正のクーデターの中心人物として一等功臣になったが、最後は流罪で死んだようである。
やっぱり、因果応報はあると思う。
斉安大君は、意外と容恕を実践していた人物だったのかもしれない。
長生きできたことは、そうした理由もあったのだろう。