福沢諭吉の命日に思う

今日は福沢諭吉の命日。


私は福沢諭吉のエピソードで、特に好きなエピソードはこの三つだ。


若い時に、オランダ語をマスターして、横浜に行って実地に試してみようと思い外国人に話しかけるとさっぱり通じず、もはや西洋ではオランダ語ではなく英語が主に使用されていると知って愕然とし、帰る道の中で途方に暮れながら、一念発起し、英語を学ぼうと志したというエピソードがまず一つ目に好きなエピソード。
当初、大村益次郎ら他の蘭学者にも英語をともに学ぼうと話を持ちかけたが、会話は通じなくてもオランダ語医学書や軍事の本は読めるのでいまさら英語は学ぶ必要がないと大村らに断られたらしい。
それでほぼ独力で、英語とオランダ語の辞書を使いながら学んだそうだ。
やがてほどなくして咸臨丸がアメリカに行くことになり、本来ならば何の身分もコネもなく、乗れるはずもないところ、艦長の木村摂津守に直訴して英語力をアピールし、異例の抜擢で咸臨丸に乗り込み、アメリカに行くことになり、運命が開けていったとのこと。
人間、気を取り直して一念発起して努力することと、そうすれば思いもかけず未来が開けることもあると教えてくれるエピソードだと思う。


もう一つ、好きなエピソードは、一度も浮気をせず、奥さんを大事にしていたというエピソードである。
当時は、吉原などの遊郭に通う男性がほとんどで、特に一夫一婦のモラルもまだ確立されていなかった。
福沢諭吉は早くに父親が死んで母や姉に育てられたこともあったせいか、非常に女性を大切にする人で、一度も悪所通いをせず、終生奥さんだけを大切にしたそうである。
また、一夫一婦制を常に強く主張し、日本男性の性的なモラルの低さを終始一貫嘆き批判し続けた。
どうも、幕末の志士や明治の自由民権・社会主義の人などで、政治的には随分立派な人でも、そうしたところのモラルが欠如している人々があの時代は随分多い中で、福沢諭吉のその点は、本当に今の観点から見ても立派なものだと思う。


あともう一つ、好きなエピソードは、長沼村のいわゆる「長沼事件」に関する話である。
千葉の長沼村という村は、江戸時代に長沼という沼の漁業で生計を立てていたそうだが、明治になってその入会権を国に没収され、生計に困っていたそうである。
村人の小川武平という人が、行政にかけあうが相手にされず、たまたま「学問のすすめ」を読んで感動していたので、福沢諭吉のもとを何の面識もないのに訪れてそのことを相談すると、それから三十年間、ずっと親身になって相談に乗り、さまざまな援助を行い続けたそうである。
福沢は、訴訟についてのみでなく、自ら資金援助も行って長沼村に学校を建てるなど、物心両面で武平らを支え続けたそうだ。
福沢は最後まで長沼村のことが気がかりだったらしく、脳梗塞で倒れて晩年は言語が不明瞭だったが、どうも長沼村のことを尋ねているようなので、そうかと周囲が尋ねると、しきりにうなずき、訴訟に勝って今は大丈夫だと周囲が言うと、とても安心していたという。
福沢諭吉が死んでからもう百十何年と経つけれど、毎年福沢諭吉の命日には、その長沼村から、長沼で取れた魚を村人が福沢家まで贈りに行くこと今も続いているそうである。


最も好きなエピソードは上記の三つだけれど、他にもいくつも福沢諭吉のエピソードで好きな話はある。
たとえば、咸臨丸の艦長の木村摂津守に対して終生恩義を忘れず、明治初年の混乱の時に木村の屋敷が火事で燃えそうになった時は慶応義塾の生徒を引き連れて消火に努めたという話や、木村摂津守が明治後没落した後も、何かと物心の援助を行い続けたという話。
緒方洪庵への恩義も修正忘れず、その遺族に常にさまざまな形で恩返しを続けたという話。
あと、弟子への愛情が実に深かったことを伝えるさまざまなエピソード。


あと、何よりも、印象的なのは、福沢諭吉は非常に母思いで、親孝行だったそうだが、母の葬式の時に喪服ではなく、尻端折り姿で現れたというエピソードである。
福沢諭吉研究者の小室正紀先生が以前講演で言っていて、なるほどと思ったのは、なぜその時に尻端折り姿だったのかというと、福沢の家は父親が早くに死んだ後は極貧だったそうで、母親も随分苦労したし、諭吉も小さい頃から手間賃稼ぎのためにあちこちの手伝いをしながら育ったそうで、その時のユニフォームが尻端折り姿だったのだろう、だから他の人はわからなくてもいい、一番大変な時を共有した母にだけわかるように、その姿で現れたのではないか、という話で、なるほどと思った。


福沢諭吉の父親の百助は、大阪で藩の会計を預かる役目だったそうだが、急死だったため、一説には藩の会計に関する出来事で自殺に追い込まれた、あるいは消された、という話もあったそうである。
福沢諭吉が「門閥制度は親の仇」といって、封建制度を憎んでいたことは有名な話だが、父を死に至らしめたのが幕藩体制だったと思っていたならば、その気持ちもよくわかる。
そのような中で、テロや権力の方向に向かわずに、学問によって世の中を変え、人々の意識を変えるという方向に、さまざまな苦しみや思いを昇華させていったのは、本当に大変なことだったろうと思う。


どうも、福沢諭吉は誤解がつきまとう人物のようで、本人自身は朝鮮半島を日本の領土とすることを明確に批判する文章も残しているにもかかわらず、そして「脱亜論」は自分の弟子だった金玉均が朝鮮の政府に無残な殺され方をしたという憤激の上での文章だったにもかかわらず、皮相に脱亜論の文章が受け取られて、あたかも西洋崇拝のアジア侵略主義のように誤解されていることが多々あるのは、非常に気の毒なことだと思う。
特に、ネット右翼の品性下劣な人々が、自分たちの正当化のために一知半解で福沢の脱亜論を持ち出すに至っては、なんということかと思われる。


福沢諭吉は、父親の百助が座右の銘にしていた「誠心誠意屋漏に愧じず」という言葉を、自らのモットーにしていたそうである。
これはもともとは詩経の言葉だそうだ。
また、愛弟子の馬場辰猪の八回忌の命日の時に、「気品の泉源、智徳の模範」、つまりこの世の中の気品の源となり、智慧や道徳の模範となるように、馬場を見習ってなるように弟子たちに言っている。
ちなみに、馬場辰猪は、自由党の政治家として薩長藩閥政府と闘い続け、ついにはアメリカに亡命し、そこで客死した人物である。


後世の者は、もし福沢の名を持ち出すのであれば、この二つの言葉をこそ、まずは心に刻むべきと思う。
とかく今に至っても誤解の多い人物だし、大人物の常として単純にとらえることのできないさまざまな側面を持った人物とは思うけれど、私はやっぱり、福沢諭吉が好きだし、ことあるごとに、思い出される人物である。
昨年は行くことができなかったけれど、また今年は中津の旧跡を訪れたい。
そして、かれこれもう十年以上前に行ったきりだけれど、東京の麻布の善福寺にある御墓にも、またお参りに行きたいものだと思う。