雑感 日本と宗教

内村鑑三は、日本の一番の問題は、キリスト教を採用せずに西洋文明を導入したことだと述べた。
私は必ずしもそうは思わないが、耳を一応傾けるべき問題提起かもしれない。


福沢諭吉は、キリスト教をスルーして西洋文明を導入しようとした。
しかし、福沢はそれと同時に、実は仏教を重視していた。


内村のようにキリスト教を真摯に導入しようともせず、かといって福沢諭吉のように仏教(特に浄土真宗)を重視するわけでもなく、キリスト教も仏教もろくに存在しないとしたら、確かに軽佻浮薄な表層的な文明しかありえない気もする。
文明の根底には宗教があるという二人の見識は卓見だったろう。


福沢諭吉内村鑑三の精神のタフさは、究極的には宗教的な芯やよりどころがあったからなのだと思う。
仏教も忘れ、かといってキリスト教にも学ばないとしたら、しょせんはあんまり芯やよりどころがなく、重要な局面ではひしゃげてしまうことが多いのかもしれない。


あと、思うのだが、福沢諭吉内村鑑三は、政治についても極めて活発な発言をしながら、どこか政治に対して非常に醒めているところがあると思う。
しょせん、政治は人を本当には救えないし、人間にとって二次的な活動だと心得ているところがある。
それは、宗教という軸がしっかり二人にあったからだろう。


そういう視点がないと、政治について絶望せず、あるいは過剰な期待を抱かずに、冷静に諦めずに付き合い続けるなんてことは、人間にはできないのだと思う。
政治は人の魂は救えないが、そうであればこそ、二次的な活動として人の自由な条件の確保や整備には重要ではある。


安っぽい享楽主義や御利益祈祷以外の、本当の意味での強靭な精神を支える信仰や宗教は、現代日本にどれぐらい存在するのだろうか。
というより、存在しうるのだろうか。


キリスト教がない西洋文明など心臓のない形骸みたいなものだし、仏教のない日本文化など心臓を抜いた形骸みたいなものかもしれない。
憲法改正などしたところで、こうした根本の問題は何も解決されないだろう。
元凶は現憲法でもなんでもない。
明治以来の、そうした問題が根底にある。