現代語私訳『福翁百話』 第六十八章 「経済的に豊かな人の心の置きどころについて」
人生においてコツコツと努力して独立の生活を営むことは、とても素晴らしいことです。
すでに自分の身と家庭の独立を成し遂げ、さらにその上に努力して子孫のために財産を増やすことを目指し、さらには富豪の名を轟かして、自分の力量を人々に知らせることも素晴らしいことです。
力の強い者が勝ち、弱い者が敗れるこの世の中にあって、他の人に先を越されず、人に抜きんでることは、男子の為すべき事であり、決して非難すべきことではありません。
しかし、財産を増やそうと熱心になることも、時とともに多少の変化があることが望ましいことでしょう。
そもそも、人の生涯は長いようでもあるし、短いようでもあって、その生涯の間にさまざまな移り変わりがあります。
と同時に、心を楽しませるための方法も様々なものがあります。
春の花と秋の月は、その趣きが違っておりますが、両方とも楽しむべきものです。
若い人の遊びも、年寄りの楽しみも、年齢によって同じではないことはそのとおりですが、同じ年寄りであっても、あるいは同じ若者であっても、お互いに好みが違っているだけでなく、同じ人が昨日まで楽しんでいたことをやめて、他の新しい楽しみに移ることもあります。
このことを、人生の心境の変化と言います。
ですので、財産を好むことは、人間の欲望の中で最も盛んなもので、これを変えるのは最も難しいことです。
ですから、私は今この世界の投資家や財産を増やそうとしている人に向かって、急に金銭に耽る眠りから目を醒まして無欲になって、のんびりと清らかに過ごす暇人になりなさいとアドヴァイスするわけではありません。
そうではなく、そんなことを説いても社会の利益になるとも判断しておらず、このような性急な議論は無益な話だとして口に出して言うこともしません。
ただ、願うのは、財産に熱中している類の人々の心境を転換して、その心の落ち着くところをお金よりも上のものにあるようにしたいという事だけです。
生れた者は必ず死ぬというのはこの世の決まりごとであり、生命がある限りは努力するものですが、さて心の落ち着きという点を問われるならば、この惜しむべき生命以上のところに心を置いて、死は言うまでもなく覚悟のことだと答えざるを得ません。
生命に対してすら執着すべきではないのです。
ましてや、たいしたものでもないお金や、吹けば飛んでいく紙幣については言うまでもないことです。
それらは生命と比べればとても比較にならないものでしょう。
そうであるだけでなく、私はこのたいしたものではなく、吹けば飛んでいくものを、むなしく捨てなさいと勧めるわけではありません。
これを大切に取り扱うのと同時に、天から与えられたこの不思議な人間の精神を、どんどんますます高尚なものに向上させて、金銭よりはずっと高いところに位置させようとするまでのことです。
ですので、決して並外れた望みというわけではないことでしょう。
さて、その金銭以上のところに心の落ち着きを置くということの方法について、試しにここにちょっと述べてみましょう。
一般的に、今の世の中の大金持ちや投資家と呼ばれる人を見ると、大変品がない人々がいるようです。
長年の願いがやっとかなって大金持ちになったならば、まず豪邸を建てて庭をつくることを第一の願いとしています。
生活のレベルが拡大するとともに、欲望もまた増大していき、多くのお手伝いさんの女性や少年を雇って使い、友人たちと集まれば酒を持ってこさせて芸者を招き、酒の席でのおしゃべりは、お金についての話でない時は、遊郭での遊びの俗な話ばかり。
さらにひどい場合は、酒の席の余興で芸者や風俗の女性同士を闘わせて面白がる事例さえ多くあります。
そのことを、「春の夜の趣は、ほんのわずかな時間が大金に値する素晴らしいもの」(春宵一刻直千金)で、その楽しみだなどと言っています。
終始、肉体的な欲望の次元以下のレベルであって、快楽といえば快楽かもしれませんが、結局財産を浪費してまき散らすだけの快楽であり、散財以外に快楽があるところを見ていません。
そして、その快楽は、さらに進めたいと思えば思うほど、多くのお金がますます必要になるため、この種類の散財は、人間にとって金銭を忘れさせるものではなく、逆に金銭を貪る思いを増殖させるばかりです。
ことわざに、「傾城(けいせい)買いの糠味噌汁」(無駄なお金を使うのに、必要な出費を出し惜しみをすること。散財したあとに、必要なお金も残っていないこと)と言います。
また、「一文吝(おし)みの百知らず」(わずかな出費を惜しみ、結果的に大損すること)と言います。
これらのことわざは、一方では大いに散財しながら、他方ではけちで、不義理、不人情をも顧みず、ただ金銭を貪ることを意味していることわざでしょう。
世の中の大金持ちや紳士たちが、しばしば大いに散財して贅沢をほしいままにするにもかかわらず、逆に金銭に執着していつも忘れることができず、自分から品がなく卑しい姿を示して、他人から軽蔑されるのは、物事の規模こそ違うかもしれませんが、これまた「傾城買いの糠味噌汁」の一種でしょう。
このような事態の根本の理由を尋ねるならば、心の落ち着くところをお金よりも上に進めることができないということの罪にあると言えます。
それでは、これをどうしたらいいかと言いますと、金銭に無関心になりなさいと無益な勧めはしません。
独立の生活をして、そのことを一人前になることの根本とすることは言うまでもないこととして、それと同時に文明を学ぶ門に入らせて、物質と精神の両方に真理や原理原則があることを教え示し、自然と高尚なところに導くという一つの方法があると勧めるのみです。
しかし、こうした学問教育ということは、若者には適したものですが、中年以上の人々には説くべきでなく、非常に当惑することでしょう。
ですので、ひそかに私の意見を述べるならば、そもそも人間は生れてから今までの教育はもちろん、持って生まれた性質や習慣によって、必ず何かを好み、何かを信じているものです。
ですので、その持って生まれた性質や習慣を利用する時は、中年以上のお年寄りの人であっても、心境の変化を工夫することも、必ずしも難しくないようです。
一種の巧みな手段として見るべきものです。
たとえば、自分では学問もなく何の技術もないと言う人でも、機械を好む人がいます。
また、宗教を信じている人もいます。
その他、さまざまな遊びや芸事など、何か心を寄せ、興味を傾けるのは人生の常ですので、その道筋から、知らず知らず進歩するという方法があることでしょう。
機械の使い方を問い尋ねていって、段々と科学の奥深いところまで入り、ついには哲学の味を味わうようになったり、宗教において地獄極楽の話を聞き、段々と深いところい入っていて、知らないうちに仏教の理論の極めてすぐれていることを喜ぶまでに至るようなことは、世間において多くの事例があります。
どれも心を高尚にする道です。
さらにまた、信心や趣味は自然と友人を得るための手段ともなり、意図せずして大きな利益となることもあることでしょう。
ですので、今の大金持ちや投資家の金銭欲や肉欲を緩和して、心の落ち着くところを金銭よりも上のレベルに置き、精神的な事柄の楽しみを楽しむようにさせるには、直接的に正式の教育を言うのではなく、その持って生まれた性質や習慣から自然に進むことができる道があるのを知るべきです。
ただ、困るのは、趣味もなく、才能もなく、信心もない、財産はあれども餓鬼そのものの人々(有財餓鬼)です。