現代語私訳『福翁百話』 第七十三章 「教育水準が高くなりすぎることを心配する必要はありません」
「僻地の、ほとんど人がいない村にまで教育が普及するように工夫し、いわゆるど田舎の百姓の子どもまでが本を読み哲学や科学を講義するような結果になるならば、文明はつまり文明ではあるかもしれないが、無駄に子どもの気品を高くするだけで、産業を盛んにするというところから見る時は、かえって不利益なことを思えば残念である。
世界のさまざまな国の地理の本を読み、ロンドンやパリが繁栄している様子を聞けば、自分の住んでいる村が狭くて汚いことを知る。
学校で高尚な哲学や科学について議論し、さまざまな機械の働きなどを知る時は、肥料となる糞尿を入れた桶を担いで畑に出るのをつまらないことだと気付く。
特に新聞のようなものはちょうど若者の野心をそそのかす道具であり、新聞を読んで意味を理解すればただ時事問題に心を奪われて、家の中でじっとしていることができず、しばしば人生の方向を間違える者が多いのは、まさに今日の事実だ。
非常に憂慮すべきことだ。
もしもこのまま放っておいたならば、教育の進歩とともに農業その他の、社会からあまり大事にされない職業に就職する人はだんだんと減少して、国の産業ということから考えれば、重大な事態に至るだろう。
結局、教育が行き過ぎていることによる弊害なので、なんとかこの弊害をなくすように工夫すべきだ。」
と、内々に議論している者がいるとのことです。
一見、ひょっとしたらそうかもしれないと思わせるような話です。
しかし、実際は決してそうではありません。
そのように主張する人は、今の田舎の若者が、なんだか慢心して生意気な様子を見て、その気位の高さを教育が普及したことの罪に帰しているようです。
しかし、実際はその反対です。
田舎の若者の気位が高いのは、地方に教育がまだ普及していないことの明らかな証拠として見るべきことです。
一般的に、世の中に存在するものはなんであれ、数が少ないものほど人から貴重に見られるのが普通です。
学問もまたそのようなものです。
今の田舎の地方は、まだ昔の江戸幕府の時代の田舎そのままで、四十代五十代の年配で正規の教育を受けた人の数は非常に少ないものです。
そのほとんど教育がなされていない地域社会において、たまたま学校で勉強した若者が混ざっていれば、言うならば、鳥がいない場所でのコウモリみたいなもので、近所の人々から貴重がられて、その気位も自然と増長するものです。
しかし、ちょっと時が経てば、その時の若者が生意気に学問のこととして語っていたことも、ごく当たり前のこととして、それほど貴重に思う人がいなくなるのは間違いないことです。
すでに世の中に貴重に見られなければ、百姓は百姓、町人は町人で、それぞれの家業を営むほかには社会を生きていく道はないことでしょう。
ただ、その営業の上において、少しでも学問の考え方があれば、ものごとの道理を理解することが簡単で、多少の利益があることでしょう。
世の中に教育が普及すれば、人々が自然に社会の上で重視されていない仕事を嫌うようになるなどと言うのは、ありえるはずもない空虚な想像であり、取るに足りないことです。
このことを歴史の事実で証明しましょう。
今までの三百年間を遡って、人間の文明がどうだったかを観察するならば、毎年毎年進歩して止まることがなく、昔に比べれば、今や人間はすでに教育の行き過ぎの頂点に達していると言えます。
ですので、日本の中で社会から重視されない仕事に就く人はいなくなるはずです。
しかし、そんなことはないだけでなく、人口の増加も、貧富の格差も、だんだんと激しくなり、それとともに、貧しい人の数もだんだんと増えています。
場合によっては、それらの貧しい人々も、教育の恩恵を受けて知識や見識を広げて、自分の職業の上で利益となることもあるでしょうが、社会から重視されない仕事に就職したがる人の数が不足となることなどはないことは保証できることです。
結局、人間の賢さや愚かさというのは相対的なものであり、とても賢い人々の社会においては少しばかり賢い人は愚かとされてしまいます。今年は智恵のある人とされていた人も、数年後には愚か者となるものです。
社会から重視されない仕事が愚かな人の仕事だというのであれば、人間の文明が進歩するにしたがって、相対的に愚かな人々が生じることは終わりがあるはずがありません。
教育の普及が行き過ぎるということは、ちっとも心配する必要のないことです。