現代語私訳『福翁百話』 第五十七章 「細心の注意を払って慎み深く生きるべきです」
「立派な徳のある大きな人物は、一見したところ愚かに見えるぐらい大らかなものだ」と東洋では昔から言われます。
そのように言えば、何だかもっともらしく聞こえて、英雄や大物の雰囲気を表現しているようです。
しかし、こうした心がけは、ただ胸の奥深くにおさめておいて、決して口にするべきでないだけでなく、顔にも表すべきではありません。
人間の人生は、この人間社会の凡庸で通俗的な人々と混じって暮らしているわけで、自分もまた共にその凡庸で通俗的な人間の中の一人でこそあります。
ですから、道徳を身に付けて立派な人物であろうと努力することは当然の義務ではあります。
しかし、道徳を身に付けたからといって、なぜその様子が一見したところ愚かのようになるべきでしょうか。
道徳がますます立派になればなるほど、その姿かたちも自然と愚かには見えなくなり、世の中に尊敬されるようなものになるはずです。
そうであるのに、今、その愚かであるような茫洋とした様子を立派な大物のしるしだと認識するようなことは、人間の社会のつまらない小さなことには無頓着無関心で大きな高尚な道徳を養って悠然と生きるべきであるというような意味なのでしょうけれども、そのようなことは単に人里離れた山奥に住む仙人の類にのみふさわしいことであり、凡庸で通俗的なこの人間世界にふさわしいことではありません。
ましてや、子どもや若者の道徳や振る舞いを戒めて、細かなことにも細心の注意を払って生きるように導く必要があるこの現代の社会においては、言うまでもないことです。
立派な道徳がまだ立派にもなっていないのに、無駄に怠けものや非行の習慣ばかりを助長する教えになるだけのことでしょう。
このことをたとえて言うならば、たとえば、一休さんが仏教の極意を得てから、かえって戒律から自由に離れて、仏像を拝まず、魚や肉を食べて、悠々と自分で納得して、一見なまぐさ坊主のようであったのは、これは一休さんであってはじめて可能なことでした。
一休さんの場合は、一休さんもまた仏教の中のひとつの仏教の働きと見ることができます。
しかし、この世界の数多くの修行中の小僧さんたちが、まだ一休さんのような高い境地に至っていないのに、すぐに初期の段階からそのなまぐさ坊主の様子だけを学ぶようなことがあれば、それこそ仏教の世界にとって大変なこととなることでしょう。
ですので、「立派な徳のある大きな人物は、一見したところ愚かに見えるぐらい大らかなものだ」などと言うのは、人間の社会において稀な事例を指しているだけの、奇妙な言葉というべきのみです。
あわただしい現代文明の社会において、てきぱきと物事を処理し、人々とよく交際するための教えとなる言葉ではありません。
若者は、このことをよくよく理解するべきです。