現代語私訳『福翁百話』 第五十六章 「智恵はそのつど少しずつ発揮すべきです」
「智恵は小出しにすべし」(智恵はそのつど少しずつ発揮すべきである)とは、昔の時代の人の名言です。
大きく立派な智恵を一度に現して一度に世界を驚嘆させようとするよりも、朝に夕に折に触れ、そのつどそのつどの出来事に直面する中で、遅滞なくてきぱきとその当面の物事を処理して、さわやかに颯爽とこの社会の中で生きていくべきです。
ネズミをとるネコは爪を隠すと言います。
隠すのは良いのですが、生涯爪を隠してネズミをとらないならば、爪がないのと同じです。
世の中の若者が、ともすれば英雄や大物を気取って、人間の社会のひとつひとつの出来事に無頓着だったり無関心で、鈍いと言われたりぼんやりしていてよく気が付かないと指摘されたりしても、聴く耳を持たず聞き流して、お高く構えて、こんなつまらない事は自分の本領ではない、そのようなつまらない仕事は自分の個性に合っていない、などと言って、勝手気ままに好き嫌いをしている様子は、病気がちの貴族のおぼっちゃんが食べ物や飲み物をうるさく好き嫌いして選ぶ様子と同じです。
そもそも、そうした若者は、自分は自分の心の中に大きな智恵や才能を持っていて、簡単にはその智恵を使わず、使うならば大いに発揮して大きなことを成し遂げる、というつもりなのでしょう。
しかし、チャンスはチャンスの方からやって来て自分を求めてはくれないものです。
自分から進んでチャンスを求めるのでなければ、チャンスに出会うことはないことでしょう。
ネズミをとりたいと思うならば、ネコの方から進むべきです。
ネズミがやって来てネコに触れたという事例は聞きません。
ただネズミを求めるだけでなく、トンボであってもセミであっても、目の前を飛ぶものがあれば見つけ次第飛びかかって、日ごろからの自分の腕を試すのがネコの本分でしょう。
ネコの爪は決して隠すべきではありません。
つかまえようとするものの大きい小さいに関係なく、少しでも自分の腕を試す機会があるならば、そのチャンスを無駄にせず、自分の業績や名前を発揮すべきです。
このことを言いあらわすならば、「爪の小出し」(ネコの爪を隠さずにそのつど発揮すべきである)と言うこともできます。
その昔、太閤・豊臣秀吉が、木下藤吉郎と呼ばれていた若い頃からだんだんと出世していったのは、太閤・豊臣秀吉となるほどの大きな智恵を持ちながらも、初めは草履取りとなり、次には炭や薪を工面する役職になり、その次には建築を管理する役職となり、だんだんとその智恵をそのつどそのつど少しずつ発揮して、てきぱき・きびきびと仕事を理解し処理し、やっと大名にまで出世したならば大名としての智恵を発揮し、ついに天下を掌握すれば天下を平らげるだけの智恵を発揮したからです。
もしも、木下藤吉郎と呼ばれていた当時の若い頃の秀吉が、武家に奉公した最初の頃から英雄や大物を気取って、草履取りは自分の本領ではない、炭や薪を工面する役職など私の個性に合っていない、などと力んで好き嫌いを言っていたならば、結局天下を手に入れることもなかったことでしょう。
太閤・豊臣秀吉の生涯の大事業は、智恵をそのつどそのつど少しずつ発揮したことによって成し遂げられたものと言うことができます。