現代語私訳『福翁百話』 第五十五章 「人の善い面を見ることと悪い面を見ることについて」

現代語私訳『福翁百話』 第五十五章 「人の善い面を見ることと悪い面を見ることについて」




人間は人生において神々や幽霊ではないので、他人の心の中の微妙な動きを知る方法はありません。


そうであるにもかかわらず、社会には正しい人と不正な人とが混じって生活しており、大変混雑したものです。
それだけでなく、正直な立派な人物であっても評判が良くない人もいますし、不正なつまらない人物でも巧みに外面を装っている人もいます。
ましてや、この間まで非とされていた人物が今は是とされることがあるように、人の心の変化は極まりないものであることを考えれば、この判断の難しさは言うまでもないことです。


その姿が外見に現れてはっきりとしているものは別ですが、心の微妙なところに至っては、認識しようとしても到底人の力が及ぶところではありません。
ですので、今この心の微妙なところに触れる方法はどのようにすべきかと言えば、まず自分の智恵のあらん限りを尽くして他の人の言葉や行動を観察し、正しい人に近づき不正な人から遠ざかる努力工夫をこらすことです。
また、半信半疑で、正しいか不正か区別するのに困る場合があれば、その不正な人と呼ばれる人が、直接自分に対して不正な行為をしたことがなく、また他の人に対する明白な不正行為の形跡が見えない場合においては、何はともあれその人を正しい人として観察すべきです。


このようにすると、場合によっては予想と食い違うこともあるかもしれませんが、元来神や幽霊のような見通す力がない人間の智恵によって信頼できるかそうでないかを決定することですので、他人を善い人間と認識して間違えることも、他人を悪い人間と認識して間違えることも、あることでしょう。
この二つの間違いは間違いとしては同じことですが、その結果については個人にとって、また社会にとって、利益や損害が大きく異なっている場合があります。


つまらない人間を間違って立派な人物と認識し、結果として立派な人物ではなくもともとつまらない人物のままに止まるとしても、そもそも損害があるというわけではなく、場合によっては立派な人物だとみなされたがために心を入れ替えて一時的にしろ立派な人物のする行為を行うこともあるでしょう。
そのような人物がそうした事情で立派な行為を行う間は、まぎれもなく立派な人物であり、社会に一人の立派な人物が生じたことになります。


それに対して、立派な人物への待遇においてつまらない人物に対するような対応をすれば、その人の心を傷つける上に、立派な人物が立派な人物として働くことをさせず、社会の公共の利害にとっては一人の立派な人物を無駄にしてしまうことになり、私的な付き合いにとっては一人のためになる友人を失うことになります。


その利益や損害は論じるまでもなく明白なことでしょう。
ただし、以上に述べた主張は、正しい人か不正な人か識別することがとても難しい場合に適用すべきことです。
ただ、私は、社会の人間の付き合いや交流のありかたの全ての面において、一般的に人を善く見るのと悪く見るのとどちらが妥当かを考察し、ことわざで言う「火を見たら火事と思え」とか「人を見たら盗人と思え」というような考えは、了見の狭いものだと戒めているだけのことです。
立派な人物を愛し、つまらない人物を嫌い、卑しい人間の言葉や行為を許容しないということに関しては、私も他の人と全く同様です。