現代語私訳『福翁百余話』第八章 「智恵と道徳において独立するということ」

現代語私訳『福翁百余話』第八章 「智恵と道徳において独立するということ」



独立とは、単に肉体的な事柄に関することだけではなく、精神的な事柄に関する独立こそがずっと大切なことでしょう。
衣食などの物質的な事柄が満たされれば独立が達成されるというような主張は、断じて許されるべきではありません。


そもそも、人間が万物の霊長と言われるのはなぜでしょうか。
人間をこの世界のあらゆるものと比較した時、特に人間の精神と動物の心を比較した時、人間の精神には一種特別な、人知でははかりしれないすぐれた不思議なところがあるからです。
ですので、人間はあらゆるものの中でも最も尊いものであり、仮にも人間たるものは言葉も行為も動物のような真似をすべきではありません。
いや、そのような真似をしようとしても自然とできないものです。
これがつまり、人間である者の持っている本当の心というものです。
わかりやすく言えば、人間の智恵と道徳です。
ですので、動物から離れ去ることがますます遠くなるにしたがって、人間の智恵や道徳はますます高くなっていきます。


他人から教えられたことではありません。
他人を憚ってのことではありません。
あらゆるものに対して、唯我独尊であると自負する、その独尊の精神こそが、自分の言葉や行為の指針となるのです。
ですので、智恵や道徳の師は、自分自身という本当に身近なところに存在します。
これがつまり、私のモットーとして守っていることであす。
要するに、ただ、自らを尊び自らを重んじ(自尊自重)し、独立して生きて、人間としての本分を尽すという一点にのみあります。


思いやりや正義や君主への忠誠や親への孝行といった道徳は、すばらしいものではあります。
しかし、これらを特に道徳や正しいこととして尊重するのは、人間の品格がまだなお高くないことを表現していると見ることもできます。
人間はもともと動物ではありません。
動物を非常に遠く離れ去り、とても高尚な存在であり、人知でははかりしれないすぐれたこの上ないところに人間は存在しているのだと、心がはっきりと明らかに自覚する時には、思いやりのない振る舞いや、正義に反すること、君主への忠義に外れたこと、親不孝のようなことは、あたかも精神障害や精神病のような振る舞いであり、そうしたことを真似したするような思いは起らないことでしょう。
人間が幸いにも精神障害や精神病ではなくて、普通の人間だからといって、特にその人を徳のある人だとして他の人が誉めるべきではありません。
ましてや、その本人がそうだからといって自分自身を誉めるべきではないことは言うまでもありません。
ほんの少し思いやりや正義の道に生きることを目指し、人々を愛し、何が正しいか間違っているかを論じ、君主には忠実に仕え、両親には親孝行するならば、人間ができるだけのことはしとげていると、自分ひとり安心するようなことは、自分で自分自身をあまり高く見ていないと言わざるを得ません。


人間における物事は極めて多くて忙しいもので、そしてまた人間の一生は非常に長いものです。
生涯の間に数限りないさまざまな物事に接し、数限りない物事に直面し、間違いのないように生きることを可能にさせるのは、ただ自らを尊び自らを重んじ独立して生きるという人間本来の心(自尊自重独立の本心)ということがあるのみです。


このことをたとえるならば、耳にさまざまな音を聞き、目にさまざまな色彩を見て、心にそれらを感じ、そのことによってそれらのことに対応する働きが生じるようなものです。
飢えや寒さがあるために衣服や食事を作るための方法を工夫し考えだします。
病気の苦しみがあるために、薬や医療を求めて方法を考え行います。
子どもが生れたならば、母乳を与えて子どもを養います。
目の見えない人がいるのを見たならば、方向を教えて道案内をします。
大きな海の波や風を考えて、蒸気船を作ります。
陸の道のりの苦労を見て、鉄道を工夫します。
これらの実にさまざまな、数限りない物事は、その物事が智恵によったものか道徳によったものであるかに関わりなく、どれもすべて、人間にもともと備わっているこの人間の心から起こり、外の世界に現れています。
人間の心は、それぞれ、他の人の心とは違います。
本来、自分に即している独立した心です。
ですので、自分自身で自分自身が気高く、人知でははかりしれないすぐれた存在だということを理解して、向上し進歩していくならば、人間のあらゆる物事に関して卑しく見苦しいことは、したくてもできないようになります。
いわゆる思いやり正義や君主への忠義や親孝行といったようなことは、もちろん人間の物事の中の大事な部分ではありますが、特にそれらのことを努力しようとしなくても、自分の言葉や行為が自然とそれらにかなっており、自分で道徳や正義とはいちいち自覚していなくても、その身が道徳や正義の人というようになるべきです。


独立自尊という人間が持つべき本当の心は、あらゆる行為の源泉です。
源泉が滾々と湧いていれば、その水の潤いが至らないところはありません。
そうであることこそ、智恵や道徳の基礎が堅固であるというものです。
立派な人物の言葉や行為は、他の人から動かされるものではなく、すべて自ら自発的に起こるものだと理解すべきです。


以上は、独立して生きる人の本当の姿を書いたものですが、勢いよく変化していくこの現実世界の中で、よくこの真意を理解する人はあんまり多くないものです。
しかも、ただこの真意を理解しないだけでなく、そそっかしく誤解する人こそが多いものです。
たとえば、思いやりや正義や君主への忠義や親孝行の道は特に意識的に努力するのでなく、自然にそれらのことにかなうようにすべきだと言えば、人の道を修める必要はないと理解して、かえって規則から外れて、その結果として、あげくのはてには人間の心が本来持っている人知でははかりしれない尊い働きを忘れて、動物に近い存在になってしまう心配があります。
ですので、ここに、道徳の教えを説く人々がこの世に生じて、人を教えるために徳目をつくり、父と子、君主と臣下、夫と妻、長幼の序など、それぞれその地位や立場に関し、それぞれの言葉や行為の方針を示したわけです。
その様子は、通俗的な表現を使えば、あたかも道徳の教えの分割販売をしているのと同じであり、これまたやむをえないことではり、世の中を維持し安定させるための方法ではありますが、すでに分割販売ということになれば、道徳全体についての考えや意識は薄くならざるを得ません。


たとえるならば、蒸気船を造るに際して、これは蒸気によって海の上で運行するものだ、蒸気の力はこういうものだ、風や波の力はこれぐらいだ、とまず全体の根本的な事柄を胸にしっかりとおさめて、そのうえで船体や機械の各部分や各部局に関して適当な仕組みをつくることによって、はじめて各部分の大小や強弱のバランスをとることができます。
これこそ、造船の設計士の本領が発揮される分野ですが、全体の根本的な事柄を知らずに、単に各部分に対して限定的に働いている人は、設計士ではなく職人や技術者です。
昔や今の無数の道徳の教えを説く人々は、はたして造船の設計士であって、人間に本来備わる根本的な、はかり知ることができない不可思議な心の働きに目をそそぎ、まず心の中をしっかりと確立し、その後に外の出来事に対応する方法を説いたものでしょうか。
それとも、そうではなくて、単に職人や技術が局部において働くようなものであり、心の中の根本をおろそかにして、専ら外面的なことにばかり力をそそいだのでしょうか。
どうも後者の傾向や疑いはないでしょうか。
たとえ、場合によっては卓越した偉大な人物が、人間にとって根本的な、独立自尊という主義をわずかに述べることがあったとしても、後世の学者の多くはその真意を理解することができず、この世界に教えとして伝わっているものには、ほとんど独立自尊の主義があることは見ることができないようです。
残念なことだと言えます。