現代語私訳『福翁百余話』第七章 「文明的な家庭とは親友が集まってできたものです」

現代語私訳『福翁百余話』第七章 「文明的な家庭とは親友が集まってできたものです」



子どもを養育するにあたって、「父は厳しく母は優しく」(父厳母慈)という言葉があります。
父親はなるべく言葉や姿を重々しくして、母親はもっぱら慈愛を持って接し、緩急、剛柔、お互いにバランス良く合わせるとちょうど適切になるという意味でしょう。
男性と女性の性質から論じていて一理ある説のようではあります。
しかし、進歩や改良は人間の世界において決まっている事であり、学問や文明がだんだんと進歩すれば、親が子どもに接する方法も、だんだんとその姿を変化させていかざるを得ないものです。


その「父は厳しく母は優しく」というモットーは、男尊女卑の社会において生じた因習であり、そもそも文明社会における家庭では行うべきではありません。
家庭のすべての権力が主人の男性一人に属し、母親はただ子どもを産み、子どもの身体を養う責任があるだけだと決められていた時代においては、父親はあたかも独裁君主のようなもので、ただ子どもに対してだけでなく、妻に対しても絶対的な権力を振っていました。
子どもは、ただその家の君主である父親の命令に従うだけであり、一言も抵抗したり言うことを聴かないことはすべきでないとされていました。
時には、人間の自然な感情や、明らかな利害から、父親が本心においては、すまないと思っているような事柄でも、一度でも口に出して言った以上は父親としての威厳として必ず断行しなければならない風潮がありました。
ですので、そういう場合は、母親がひそかに傍らから心配してそれとなく取り繕い、ひとえに愛情をそそぎ、何が正しいか間違っているかなどのことは一切言わず、子どもを助けるということがありました。
父親の心においても、もともと子どもが憎いわけではないので、知っているような知らないようなことにして、穏やかにその事態を決着させ、そのことによって家庭の平和を維持するというようなことは、今も昔もいつもよくあることです。
これがつまり、「父は厳しく母は優しく」ということの本当のところです。


しかし、文明の社会は、そのようなものではありません。
子どもに対する父親と母親の権限は全く同等であり、少しも一方が軽いとか重いとかいうことはありません。
子どもに対して優しいということを言うならば、父親も母親も両方とも優しくあるべきです。
子どもに対して厳しいということを言うならば、父親も母親も両方とも厳しくあるべきです。
子どもを養育するにあたって、優しさと厳しさ、緩急といったことは、もちろん当然あってしかるべきことです。
しかし、たとえ厳しく接すべき時であっても、他人のように重々しく構えて子どもを叱る必要はありません。
父母の言葉や行為が正直で清らかで、その身に一点も醜く汚いことがなければ、家庭はあたかも親友が集まったようなものであり、ずっと続く春の日のような楽しい様子が続いていくことでしょう。


時には、子どもに良くないところがあったりした場合には、父母は優しい心の中にあっても不愉快な感情を持たずにはおれず、その感情が起こって顔に現れることでしょう。
そうなれば、その表情こそ、子どもにとってはこの上ない苦痛であり、つまりこの上なく厳しく叱られることと同じとなります。
そのことは、十分、子どもが先に行った自らの過ちを改めさせることにつながります。


場合によっては、文明的な家庭の場合であっても、母親は女性であるため、子どもを愛する心が直接的であり一筋である面もあることでしょう。
しかし、文明的な教育を受けてきた母親は、たとえ子どもを愛するとしても、自然と、犬の子に対するような愛情ではなく、人間の物事における利害を幅広い観点や多角的な視点から見る智恵があるので、子どもに対して教え諭す方法も道理を具えており、その一言は厳しい父親が雷を落として叱る声よりも、効果がある場合もあることでしょう。


ですので、「父は厳しく母は優しく」は大昔のことであり、今の時代では、家庭の中で多少の前後の違いはあったとしても、他人行儀にどちらが尊いとか卑しいというような階級を設けることは無益なことです。
お年寄りは家族という友人同士の中の年長者であり、若い子どもたちは新しくやって来た親友です。
共に語り、共に笑い、共に働き努力し、共に遊び、苦労や楽しみや貧しさや豊かさを共に分かち合って、文明の世界においてのびのびと過ごすべきです。