現代語私訳『福翁百話』 第三十一章 「身体の健康な発育こそが大切です」

現代語私訳『福翁百話』 第三十一章 「身体の健康な発育こそが大切です」


父親や母親が子どもを養い育てることは、そもそも自然に備わっている親の真心であり、また親の義務です。


では、養育に際しての心がけはどうすべきでしょうか。


まず第一に、子どもが産まれた時は、人間の子どもも、ある意味動物と同じだと考えるべきです。
賢いか愚かかどうかということは一切こだわらず、そのような問題はとりあえず置いておべきです。
たとえば、牛や馬や犬や猫の子どもを育てる時に、まず第一に身体が丈夫に育つことを心がけるように、ただ子どもの身体の発達こそが大事と心得るべきです。


食べ物や飲み物や衣服の調節、空気や日光についての注意、身体の運動、目に触れ耳に触れることを大事にして育てることなど、すべて動物を育てる時の方法に学んで身体の発達や成長をこそ大事にし、動物と同じように身体の健康という基礎がきちんとできて、もう十分健康が大丈夫だという見込みができた上で、徐々に精神についての教育も行っていくべきです。


この精神についての教育ということは、幼少時には特に教科を定める必要はなく、ただ家庭の中の、子どもの周囲の大人たちが、言葉や行動を立派なものにすれば良いのです。
周囲の大人が、少しも見苦しい言葉や振る舞いをせず、少しも残酷なことをせず、少しも嘘偽りを言わず、少しも見苦しく争わず、生き生きと活発に働いていればいいのです。
家庭の中の人々が仲良く家族だんらんである様子が、あたかも春の和やかな風のようで、あたかも秋の水がきりっと清らかであるようであれば、まだ柔軟で自由な精神の持ち主である子どものために、その家の雰囲気こそがこの上ない教師となることでしょう。


何か他の特別な事情に妨げられなければ、そのような良い雰囲気の家庭に育つ子どもは、精神の発達はとてもすぐれていてうるわしく、その子どもを生き生きと活発に振る舞わないようにしようと思ってできないぐらい、活発に育つことでしょう。


そうして成長して、七歳あるいは八歳を過ぎて、少しずつ本を読んだり論理的に考えることの初歩に入っていこうとする時には、家に家庭教師を招いて教育するなり、あるいは学校に入学するなり、その家の都合次第に任せればよいのです。


いずれにしろ、身体の健康は人間第一の宝だと心得て、どのような事情があっても、子どもの精神をいたずらに疲労させて身体の発育を妨げるようなことをしてはいけません。


目の見えない人は耳の感覚が鋭敏になると言います。
つまり、目の働きの分が耳に移っていくからです。


ですので、仮にいま身体と精神という二つのものを向い合せて、精神が負担する働きが過度になり、精神の働きを鋭敏にするならば、身体の養育発達はお留守になって、身体の健康は自然と弱ってしまうことでしょう。


これはわかりきったことなのに、世の中の父親や母親たちばかりでなく、教育の専門家たちまで気付かず、ごく幼少の子どもの頃からいろんな難しいことを教え込んで子どもの心を疲労させることをやめず、五、六歳の子どもに多くの本を読ませて物事の理屈を教え、さまざまな機械を与えたり計算などもさせています。


運よく子どもが理解すれば利発な子どもだと誉めそやし、それだけでなくちょっと勉強を怠けると叱ることさえあるので、子ども心にも人から誉められたいと思って自然と勉強や努力の心を起こし、次第に勉強する習慣ができあがってしまいます。


すると、健康の法則をごまかすことはできず、次第にそうした子どもは身体の衰弱を感じて、血色の良い顔色や肉付きの良い身体になるはずものが、胃が弱く頭痛に苦しめられるようになって食べることもままならず、ますます健康が衰えるにつれてますます運動や活動を嫌うようになり、やっと成長しても友達と一緒に運動したり遊ぶことができず、ただ一人で読書に耽るだけになってしまいます。


両親はその子どもの身体が病気がちであることを心配する一方で、同時にその子どもがよく勉強するのを見てひそかに喜び、自分の家の子どもは他の家の子どもたちと異なると考えて、かえって得意でいる人が多いものです。


本当にどうしようもないことで、そのような子どもが成人に達するまで倒れずにちゃんと育つことこそ不思議なことでしょう。
たとえ幸運にもその子どもがちゃんと生きて成長して、親の望みのとおりに学校教育を終えたとしても、いったい何の役に立つというのでしょう。
ろくな健康も人付き合いもできず、ただ勉強だけしかできないような人が大人になっても、家のためにも、国家社会のためにも、無用の長物と言うべきです。


まずは、動物と同じように健康な身体をしっかり成長させて、その後に人間として必要な精神の発達を大事に養育するようにしなさい、ということは、私がいつも主張していることです。
この世界の父親たちや母親たちは決してこのことを忘れないようにしてください。
注意に注意を重ねても、なお注意が不足しがちなことなのです。