現代語私訳『福翁百話』 第七十一章 「教育の力はただ人が持って生まれた素質を発達させるだけです」
人間の能力には、持って生まれた才能や遺伝による限界があって、決してその限界以上には出ることができません。
牛や馬の良し悪しは、二、三歳の時にすでに簡単にわかると言います。
人間の人生も、牛や馬と同じです。
相撲の番付の末席に、二年も三年も名前を記されている小さな体格の人は、関取まで昇進することは到底望むことができません。
ただし、精神の働きは目に見えないものなので、身体の大きさや強さが目にみえるようには、小さい時から賢さや愚かさを判断することは簡単ではありません。
ですので、世の中の人はともすれば、教育を重視して、人間は学べば賢くなる、学ばなければ愚かだ、と言っています。そして、賢さや愚かさはただ教育次第と信じて、人の力で賢い人をつくろうと考えている人がいるようです。
しかし、これは大きな間違いです。
人間の子どもの持って生まれた賢さや愚かさにあらかじめ決まっている部分があることは、馬の子どもの良し悪しが決まっているようなものです。また、力士の昇進に限界があるようなものです。
仮にその到達できるところまで到達したら、それ以上は少しも上に出ることはできないものです。
昔の人の言葉に、「とても賢い人ととても愚かな人は変化しないものだ」(上智と下愚
とは移らず)と言います。変化しないものは、とても賢い人ととても愚かな人だけではありません。
普通の賢さの人や、普通の愚かさの人など、こまごまとした何百か何千ぐらいはある微妙な段階の優劣は、すでに先天的に定まっているもので、決して動かすことができないものです。
そうすると、ならば教えることは役に立たず、教えなくても損はない、教育はすべて徒労だと思う人もいるかもしれません。
それもまた大きな間違いです。
世の中において、人を教えることほど大切なことはないと言っても良いのです。
その事情を語りましょう。
教育は、たとえるならば、植木屋の仕事のようなものです。
庭の松も牡丹も、自然のままにほっておけば、次第に枝ぶりも悪くなり、牡丹の花も美しさを失い、場合によっては害虫によって枯れて、しぼんでしまうものです。
しかし、植木屋が手を入れて、枝を矯正し、根に肥料をあげて、いつも注意を怠らないようにしておけば、生き生きと元気がみなぎって、つやつやと光沢が出てきて、他の自然のままほっておかれているものに比べれば、その色や香りの違いはほとんど同じ種類のものとは思えないほどになります。
ですので、今、人間の子どもをその生まれたままにほっておいて、体育や知性の教育、道徳教育などに注意する人がいなければ、その子どもが持って生まれた才能に関係なく、ただ周囲の風に吹かれて、場合によっては智恵や道徳の害虫とも呼ぶべき悪い習慣に慣れてしまい、心身の品格を失い、粗野で下等のつまらない男性や女性になってしまうことでしょう。
それに対して、仮にもその子を持って生まれた才能を空しくさせることなく、その素質のすべてを磨き上げて、輝かせるのは、教育の良い影響と力にあると言えます。
ですので、教育において重要なことは、人間にもともとないものをつくりあげて授けることにはありません。
ただ、もともとあるものを、すべて発揮させて、のこすところがないことにあります。
どんなに上手な植木屋であっても、草木の持って生まれて備わっているものだけを見事に成長させるだけのことです。
それ以上は、どんな工夫のしようもありません。
教育が大切だと言っても、あんまり教育を重視しすぎることは世の中によくある弊害です。そして、教師の工夫や努力で無理に人間を鍛えたりつくりあげようとする人がしばしばいます。
結局、人間には持って生まれた素質や遺伝の決まりがあることを知らないがための罪です。