現代語私訳『福翁百話』 第七十四章 「教育にかかるお金は必ずしも高くありません」
教育の効果は、世の中の人が一般的に想像し期待するようには、大きなものではありません。
また、そんなにすばらしいものでもありません。
人間の能力には先天的な遺伝があって、限界というものがあります。
教育はただこの持って生まれた素質を伸ばして、本人の素質を発揮させるだけに過ぎません。
そうであればこそ、子どもや若者のために学校を選び、特に先生を呼んだりして、その子の学業が成就することを大いに願い、そのために決して少なくはないお金を費やして、結局のところは目的に達しない人は非常に多いものです。
海外留学のように、普通程度の家の資産の十倍ほどを三年から五年ぐらいで使い尽くして、さほど効果もないようなことはしばしばよくある事実です。
また、もっと広い話で言えば、国家公共の学校のための費用というものも、国家にとっては簡単ではない大きな費用を費やしながら、生徒の数で平均して学力の進歩の様子を見るならば、費用対効果のバランスがとれていないと言っても過言ではないようです。
ですので、こうした事態を見て、世の中には、こんな説もあります。
つまり、この大切な国家や個人のお金を費やして、結果として十分な効果があれば別に惜しまなくてもいいけれども、勉強をした人の平均的な様子を見れば、ただお金がかかるばかりで得るものは非常に不満なものであり、教育は割に合わない費用のかかるものだと、ひそかに不平不満の思いがあるようです。
平均的な数の上から論じるならば、一応もっともな議論のようですが、さらに一歩を進めて大切なお金というそのお金とはどのようなものでどれぐらい貴重なものかと尋ねるならば、どうでしょう。
お金は貴重であるのと同時に、案外とそれほど貴重というわけでもないという事実を発見することでしょう。
家に巨万の財産を積んでも、衣食住の他、何の役に立つというのでしょう。
お金を積み重ね、思うままに積み重ねて子孫に残したとしても、子々孫々がはたしてお金をきちんと守るかというと、そうした事例が少ないだけでなく、自分の一代の間においても浮き沈みは一定せず、大金持ちも必ずしも長く続くわけではありません。
ほどほどの金持ちは、わりと長続きします。
要するに、経済的な貧富は時のめぐり合わせであって、財産はある時はあるというだけのことです。
昔の人の言葉にも、「お金や地位の高さは浮かんでいる雲のようなものだ」(富貴は浮雲の如し)というものがあり、まさにこのあたりの事実を描写した言葉でしょう。
ですので、世の中の人が財産を貴重なものだと思って思いを焦がすのは理由がないことではありませんが、実際は、遺伝や社会の習慣に操られて、ただひとえにお金は大切なものだと思い込み、しまいにはお金が大切だということの理由を忘れてしまって、理由のないところでお金を崇拝する人が多いものです。
ですので、今、教育にかかる費用が高いというのは、教育の費用が高いのではなく、お金の価値を高く見過ぎているというものです。
教育の効果は意外と小さなもので、かかるお金もまた意外と価値のないものだと気付いたならば、不平はないはずです。
ましてや、自分の身についた知識や見識は、失ったりなくしたりする心配がないものであるのに対し、自分の体の外にある財産は、消えて跡形もなくなる事例が多いものであることを考えれば、不平がないはずであることは言うまでもないことです。
国家公共においても、個人においても、子どもや若者の教育にお金を惜しむことがあってはなりません。