Nスペ「事故はなぜ深刻化したのか」を見て

以前録画していた原発事故についてのNスペ「事故はなぜ深刻化したのか」を見た。

http://www.nhk.or.jp/special/onair/110605.html


やはり、諸悪の根源は、全電源喪失の事態を想定してこなかった長年の行政と東電のありかただと思われた。
電源喪失を全く想定してこなかったことが、番組では詳細に描かれており、あらためて唖然とさせられた。
アメリカはスリーマイル事故のあと、全電源喪失の事態を想定した危機管理をずって工夫してきた。
それと日本の長年の原発行政は、全く正反対だった。


ベントの遅れは、全電源喪失を手動でやることを全く想定していなかった東電が、政府の指示のあとももたついて、一から設計図を見て検討していたことが理由だった。
手動のマニュアルを持たず、マニュアルがないがためにもたついていた。
そのことに、あらためて唖然とさせられた。


と同時に、その東電の落ち度を、菅総理の責めに帰して、この日本の一大事に足を引っ張ることしかしていなかった人々に対して、あらためてその知的誠実さとモラルの乏しさを思わざるを得なかった。
ベントの遅れを菅総理のせいにして、マスコミに操られて菅降ろしに加担した政治家や知識人は、その責任を今はどう感じているのだろう。
ちゃんと自分の誤解に関して訂正や謝罪はしたのだろうか。


それにしても、全電源喪失(ステーションアウト)を全く想定しなかったという東電と行政には、あらためて驚かざるを得ない。
かつて海軍大学校の演習はいつも日本海を想定しており、太平洋で米軍と戦う演習は一切なかったそうだ。
学生がなぜそうなのかと質問すると「ないことになっている」と教官が答えたという話を以前本で読んだことがある。
電源喪失の事態を想定せず、その対策を怠ってきた東電と行政は、実に戦前の海軍とよく似ている。
責任阻却の体質もそっくりだと思う。


菅さんが東電に乗り込んで一喝し、断固撤退はありえないと言わなければ、今頃日本はどうなっていたのだろう。
東電は五回も官邸に撤退を申し出たということがこの番組でも描かれていた。
菅さんがあの時の首相だったのは、天の配剤だった。
あの時も直感的にそう思っていたが、いま振り返って、改めてしみじみそう思う。


このNスペの原発特集であの時の菅さんを見て、シェイクスピア「ヘンリー五世」のアジャンクールの戦いの演説を思い出した。
死ぬ日までその日を忘れず、誇りをもって子や孫に語り継ぐ。
あの猛烈な菅降ろしの中で、断固として菅総理を支持し声をあげた人も、同じと思う。
菅さんや吉田所長のような人物が当事者の中にいたということが、せめても不幸中の幸いだったと言えようか。


「事故はなぜ深刻化したのか」、この問いを、本当にこれから日本は真摯に、丁寧に、各自が問い、検討しなければならないだろう。
そこからしか、本当の意味の日本の復興や、新しい日本を創るということはありえないのではないか。
賢者は歴史に学ぶが、愚者は経験に学ぶという。
経験からも学ばないものがいれば、その愚は病膏肓に入るとしか言えない。
特に理由もなく菅総理を退陣させ、そしていつの間にか原発事故への反省や検討が雲散霧消し、長年の原発行政のありかたの問題や、そもそも全電源喪失を想定しないという安全への軽視の態度も是正されないならば、どこに新しい日本も本当の復興もありえようか。