現代語私訳『福翁百話』 第七十章 「高尚な道理は身近なところに存在しています」

現代語私訳『福翁百話』 第七十章 「高尚な道理は身近なところに存在しています」


人の心を高尚なところまで進歩させて、ともかく単なる肉体的な欲望以上のところに心が向かうようにすることは、文明社会のためにとても大切なことです。
若者に対する教育も、目的はここにあります。
学校はそれぞれカリキュラムを設けており、教師の仕事はあります。しかし、学校を離れて広くこの世界の男性や女性を導き、文明の学問に案内して、気品を高くさせようとするためには、単に教育だけの方法によるべきではありません。
身近な日常の物事に関して、丁寧に親切に、その人が聞きたいと思っていることを語り、その疑問を解いてあげ、身近なところから遠大なところまで、浅いところから深いところまで入らせていくならば、もとは平凡な男性や女性が自然と高尚な思想を抱くようになることもあるでしょう。


たとえば、今、東京から大阪に行こうとするならば、必ず蒸気機関車に乗るか、あるいは蒸気船の手段によります。また、遠方との文通には、郵便を使い、急用の場合は電報を使います。
これらは、ごく普通のことで、人は疑問を持ちません。
しかし、その蒸気機関車や蒸気船が動く理由を科学によって説き明かし、郵便の処理について統計学の原則を示し、電報の実際を見せて電気のすばらしい働きを語るならば、あらゆるものごとは、すべて科学の原理原則の中にあることを見ます。
ただ、文明によってもたらされた新しい事物だけに限りません。
目の前にある、一本の樹、ひとつの石ころ、一枚の紙のようなかすかなものも、真理や原則に照らしてその性質を説き、その効用を明らかにすることができます。そうして、段々とその理によって推論し探究し、深い真理に入り、とても深いところにまで達するならば、この小さな人間の身体に宇宙全体を網羅し、太陽や月も小さなもので、芥子粒も大きなものだという思想を持つまでになることでしょう。
このようなことを語ったり、聴いたりする人は、きっと高尚な心を持つようになります。


慶応義塾の学生の中に、真言宗の僧侶の菅学応という人物がいます。
彼が、最近、「弘法大師と日本文明」という題で一冊の本を書きました。
その本の中の一節に、
『今、いろは歌と涅槃経の四句の文章を照らし合わせてみると、
「いろはにほへどちりぬるを」の十二文字は、涅槃経の「諸行無常」の初句によっています。
宇宙のあらゆるものごとが移り変わっていく様子を、咲き乱れる花々がしおれて散っていく様子にたとえています。
「わがよたれぞつねならむ」の十一文字は、「是生滅法」の第二句によっています。
すべての人は、遅かれ早かれ死ななければならない運命を持っていることを述べています。
「うゐのおくやまけふこえて」の十二文字は、「生滅々已」の第三句によっています。
無常で移り変わっていくこの世界を離れ、変わらない永遠の悟りに至ることを明らかにしています
あさきゆめみしゑひもせず」の十二文字は、「寂滅為楽」の最後の句によっています。
今まで持っていた妄想や顛倒したものの見方を離れ、清らかな静かな涅槃の楽しみの中に安住することを示したものです。』
と書いてありました。
「いろは」歌の意味を解説して見事なものです。
日本の国民の百人のうち九十九人は簡単に読み書きし暗唱している、いろは四十七文字も、これを仏教から読みとくならば、とても深く微妙な真理が存在していることを見ることができます。
弘法大師空海の比類なき天才、ただ後世の人を驚かせるばかりです。
ですので、文明の考え方を世の中に明らかにして、経済的に豊かな人も貧しい人も、地位の高い人も低い人も、すべての普通の人たちを誘い導き、小さなことで言えば個人の気品を高め、大きなことで言えば一国の地位を高くしようとするためには、必ずしも学校の教育のみに限りません。
身近な日常の目の前の物事について会話を試み、笑ったり遊んだりしながら、身近な質問や答えを通じて、ついに深いところまで入らせるための手段は本当はとてもたくさんあります。
世の中を文明をリードする学者や知識人は、決してこの世の中の物事を軽々しく見過ごしてはなりません。