花祭りに寄せて

今日は花祭りの日。
日本だと仏陀降誕会ということになっている。
ただ、スリランカやタイなどの国では、ウェーサーカー祭という祭りが、日本の花祭りとは別の日に行われている。
ウェーサーカ祭は、仏陀の誕生日と悟りを開いた人と入滅した日を祝うお祭りだそうで、南伝仏教だとこれらは同じ日に起こったことだそうである(日本だと悟りを開いた臘八会が十二月八日で、入滅した日の涅槃会は二月十五日でそれぞれ降誕会とは別の日に記念している。)
国連にも国連ウェーサクの日祝祭というのがあるそうで、日本も花祭りの日にこだわらず、その日やあるいはタイなどのウェーサーカ祭の日に合わせても良い気がするけれど、なんであれ、偉大な人物を記念するお祭りというのはゆかしく麗しいものかもしれない。

私が思うに、イエス・キリストを別格にすれば、人類の精神に影響を与えたという点で最も偉大な人物は、ソクラテスパウロ仏陀なのではないかと思う。
仏陀のことばや生涯を記したパーリ仏典と、ソクラテスの言行を記したプラトンの著作と、パウロの書簡を日々に読んでいけば、勇ましく高尚な生涯になるのではないかと思う。

ちなみに、仏陀の入滅後、数百年の間は、仏像や仏画はつくられていなかったそうで、もともとは仏教は偶像崇拝ではなかったし、極めて哲学的・実践的で、儀式や加持祈祷などの宗教とはかなり様相が異なっていたようである。

仏陀の言葉を読んでいて、ただただ感嘆するのは、そのシンプルな明晰性である。
パーリ仏典を読んでいて、仏陀の言っていることで何かおかしなことや理にかなわないところを、どうも私は見つけることができない(漢訳の大乗仏典は別である)。
二千六百年ぐらい前に、これほどの明晰な言葉を述べることができた人物は、やっぱり悟っていたのだろうなぁと思う。

ただ、日本の仏教は、どうもあんまり仏陀の教えが伝わっていないのではないかと思う。
お寺はたくさんあるし、一応江戸時代の檀家制度の影響で、今もってなんらかの形で仏教の檀家や門徒の人は多いのだろうけれど、ではそれらの人がどの程度、本当にパーリ仏典を知っているかどうかというと、かなり疑問である。
漢訳の大乗仏典は、中には多少はパーリ仏典の内容と共通するものもあろうけれど、たいていの場合意味もわからず漢文を棒読みして呪文のようになってしまっている場合も多いと思う。

実はなじみが一見あるようで、日本人にとってパーリ仏典や仏教は、聖書やキリスト教と同じ程度に、実はよく知らないという謙虚さを持った方が良いのではないかという気もする。
死んでから意味もわからない漢文のお経をあげてもらうよりかは、生きているうちに良い言葉に触れていくことが、勇ましく高尚な生涯につながると思う。
いろいろと古典に触れて、すべてを吟味して良いものを大事にし、あらゆる悪い事柄から遠ざかることが、人生においては大切なことなのだろうなぁと思う。