花祭りの日によせて

今日は花祭りの日で、日本では仏陀釈尊の生まれた日とされる。
スリランカなどではウエサカ祭の日とされている。)


私が通った幼稚園は浄土真宗のお寺さんがやっているところだったので、そういえばかすかな記憶でお花祭りの日には甘茶を注いだり歌を歌ったような記憶がある。


そんなことを思い出しつつ、ふと、自分は仏典の中のどの言葉が好きだろうかと考えてみた。

その時々で変わるような気はするけれど、以下の華厳経の言葉がわりと好きである。
やや長いが、要するに「信」は心を澄まし、良い方向に人生を向かわせるという意味である。


「信は道の元とす、功徳の母なり。一切のもろもろの善法を長養す。疑網を断除して愛流を出で、涅槃無上道を開示せしむ。
信は垢濁の心なし。清浄にして驕慢を滅除す。恭敬の本なり。また法蔵第一の財とす。清浄の手として衆行を受く。
信はよく恵施して心に悋しむことなし。 信はよく歓喜して仏法に入る。 信はよく智功徳を増長す。信はよくかならず如来地に到る。
信は諸根をして浄明利ならしむ。信力堅固なればよく壊することなし。 信はよく永く煩悩の本を滅す。 信はよくもつぱら仏の功徳に向かへしむ。
信は境界において所着なし。諸難を遠離して無難を得しむ。 信はよく衆魔の路を超出し、無上解脱道を示現せしむ。
信は功徳のために種を壊らず。 信はよく菩提の樹を生長す。信はよく最勝智を増益す。 信はよく一切仏を示現せしむ。
このゆゑに行によりて次第を説く。 信楽、最勝にしてはなはだ得ること難し。」


上記の華厳経の言葉は、親鸞が特に愛した言葉だったらしく、教行信証の信巻に長々と丸々引用されている。
おそらく、親鸞自身を鼓舞し励まし支える言葉でもあったのだろうと思う。


「信」、つまり、この人生や世界に、何か尊いものや正しいことや信頼するに値するものがあって、この人生は何の意味もない空しい滅びではなく、生きるに値する善いものである、ということを信頼し、信じる心というのは、たしかに人を導き、守り、育むものだと思う。


おそらく、仏陀の生きた時代も、大国同士の戦争やカースト制度による差別やさまさまな不条理や苦しみがあり、何も信じれなくなった人が山のようにいたのだと思う。

仏陀の教えにはさまざまな内容があり、そのどれを特に受けとめるかで後世さまざまな宗派や教えに分岐したが、華厳経のこの箇所や、それに大きな影響を受けた親鸞などは、「信」こそが仏陀の説いたことの中で最も大切なことだと受けとめたのだと思う。
人は多少生きていれば、誰であれ悲しみや苦しみに遭う時もあり、そうでなくてもこの世の不条理や醜い様子を見聞きして、いつの間にか何かを信じる心がともすれば失われてしまうようにも思う。
しかし、人間にとって最もつらいことは、この世に何の道理もなく意味もなく、自分の命が空しく過ぎていくと感じることだと思う。


そうではなくて、この世には道理があり、人生には意味があり、意味あらしめることができると仏陀釈尊は説き、それを華厳経を後世に伝えた人や親鸞のような人は信じて、一歩前に踏み出していったということなのだろうと私は感じている。


花祭りの日なので、つらつらとそんなことを考えていると、はたして自分には何かを信じる心はあるのか疑わしい気もしてきたが、甚だ微弱でも、何も信じないよりかはこの世には道理があり、生きる意味はあるということを、信じて生きていきたいようには思えた。