今日、ぱらぱらと読んでいた本に、
「往生をうることは念仏の益なり。
教法にあうことは宿善の故なり。
もし宿善にあらずして直に法にあふといわば、なんぞ諸仏の神力一時に衆生をつくし、如来の大悲一念に菩提をえしめざる。しかるに仏教にあうに遅速あり、解脱をうるに前後あるは、宿善の厚薄にこたえ、修行の強弱による。」
「往生の因とは宿世の善ならず、今生の善もならず。
教法にあうことは宿善の縁にこたえ、往生をえることは本願の力による。」
という覚如上人の言葉が載っていて、なるほど〜っと思った。
つまり、本願念仏に出遇ったのは宿善(過去に積んできた善根功徳)があったればこそ、ひとたび御本願に出遇ったら自力ではなく御本願の働きのおかげで往生する、ということだろう。
人間の身に生まれたことも、本願念仏に出遇ったことも、宿善あったればこそ、と思うと、なんともありがたい気がするし、自分もなかなか捨てたものじゃない、という気がしてくる。
平安末の南都の浄土教の珍海上人は、『決定往生集』の中でこう言っているそうである。
「安養(浄土)の行者、宿善すでに大なり。
甚だ自愛すべし。
ゆめゆめ軽んずることなかれ。
自ら知る、宿福甚幸なり。
何ぞ当来の勝利を疑わんや。」
つまり、念仏者は宿善がすでに大いなるもので、そうであればこそ自らを大切にし、決して軽視してはならない、はかりしれない功徳がすでにある、ということだろう。
これも良いことばだなあと思う。
永観律師の、
「宿(さき)の世に いかなる縁(えにし) ありてかは 弥陀につかふる 身とはなりぬる」
という歌も、同様の心だろう。
華厳経を読んでいると、過去の善根をじっと神々や菩薩が思い出し、それから教法を聴いたり、説いたりする光景がよく描かれる。
自らの善根や宿善は、折に触れて思いめぐらした方が、自分の心にとって良い影響を与えるのかもしれない。
いついかなる時も大切なことは、自らを卑下することではなく、自信を持ち、過去に積んできた良い善根功徳・宿善を大切にすることだろう。
ここらへんの機微は難しく、己をあてだよりとする傲慢と、素直に仏法僧に帰依することと、この自信を持つことと、自らを卑下し喪失することと、この四つは若干ややこしい関係にあるけれど、本当はよく整理して、適切な自信と敬虔さを持つことが大事であり、この二つは必ず両立することなのだと思う。