ひさしぶりにヴェーバーの『職業としての政治』を読んで

今日、ひさしぶりに、マックス・ヴェーバーの『職業としての政治』を読み直してみた。
深い感動があった。


以前も何回か読んだことはありその時々に感銘は受けてきたけれど、今までは、理論的なものとして、文字面のこととして受けとめていた部分が自分にはあったのだと思う。


だが、ここしばらく、第一次大戦についての映像や写真や記録や歴史を随分見てきたので、ヴェーバーが当時置かれていた状況や背景が、若干以前に比べれば少しだけ深くわかるようになったこと。
ゆえに、感動が以前読んだ時よりもきっと大きかったのだと思う。


この本は、1919年の一月、つまり第一次大戦にドイツが敗北した直後に行われた講演を文章にしたものだ。


第一次大戦がどのようなものだったかを若干歴史を通して追体験し、多少想像できるようになると、ヴェーバーの置かれていた状況の深刻さや、その絶望の深さや憂いも若干以前よりかはわかるし、そして、にもかかわらず、このような責任感と気概を説き明かすことができた、ヴェーバーの精神力の強さにあらためて驚嘆せざるを得ない。


この本は本当に短い。
にもかかわらず、実にさまざまな重要なテーマが指摘され、言及されている。


中でも、今回読んでいて、以下のことについての記述を読む時、私はあたかも日本の今のことが指摘されているような気がしてならなかった。


ヴェーバーは、上意下達の精神構造を持つ官僚と、自ら一人で責任を負うべきだし負わねばならぬ政治家は、全く違う倫理と精神を持つものだとする。
「官僚政治」を最悪のものとし、官僚とは異なる強力な政治指導者の必要を指摘する。


かつ、そのような政治指導者の登場を可能にするのは、イギリスのような「人民投票的独裁者」。
つまり選挙によって勝利した政党のリーダーに、その政党の人々が機械のように忠実に服従する、というシステムだという。


その政党や指導者の是非は、選挙で決着をつければよいことであり、その政党の内部では、リーダーに忠実な議員や政党職員がいないことには、このような「人民投票的独裁者」は成立しない。


このような「人民投票的独裁者」が成立しなければ、無責任で散漫な議会や「官僚政治」があるのみであり、国家国民にとってはかえって不幸なこととなる。


こうした指摘をしたうえで、ヴェーバーは周知のとおり、政治家にとって必要な倫理は、予見しうる結果に対して責任をとる「責任倫理」であって、自分の心情や理想だけで突っ走って結果の責任をとらない「心情倫理」ではない、ということを論じている。


これらを読んでいて思ったのは、「官僚政治」そのものだった自民党政権からやっと政権交代が実現したものの、

鳩山さんという「心情倫理」だけしか持たない政治家失格の人間と、


自分の政党の代表を引きずりおろすことしか考えず、始終与党を攪乱し、「人民代表的独裁者」の誕生を常に妨害してきた政党内部の小ボス・小沢さんという、


この二人の、ヴェーバー的な観点からいえば最悪な二人の人物が、どれほど日本の政治が悪影響を及ぼしてきたか、ということだった。


この二人に邪魔されながら、なんとか国民に直接語りかけることで「人民投票的独裁者」を目指そうとしたが、いかんせんこの二人とマスコミや野党の攻撃によって心ならずも葬りさられたのが、菅さんだったということになろうか。


心情倫理しか持たない鳩山さんや、権力闘争を自己目的化した派閥ボスの小沢さんに比べれば、菅さんははるかに結果責任を理解し、正しい意味での「職業としての政治家」の名にふさわしい人物だったと私は思う。
が、いかんせん、きちんと支える国民があまりに少なくて短命で潰えた。


野田さんも、調整型を志向しすぎる気はするけれど、それでも鳩山・小沢よりは、はるかにマシな、結果責任をよく理解し、単なる心情倫理では突っ走らない、権力を自己目的とはしない政治家だと思うが、いかんせん次の選挙では苦しい事態に追い込まれそうである。


ヴェーバーは、政治指導者に必要な資質として、「逞しい意志」と「デマゴギーな雄弁の力」をあげているが、ただ単にそれだけで良いというわけではなく、内容の伴わないデマゴギーを憂慮している。


「興奮は真の情熱ではない」
(102頁)


と言い切るヴェーバーは、終始醒めているし、


政治における大罪は、仕事の本筋に即しない態度と、無責任な態度の二つであること、


単なる演技者になり、自分の行為の結果に対する責任を安易に考えたり、自分の与える「印象」ばかり気にするということが、政治家・デマゴーグにとって罪や失敗であることを指摘している。


最近人気の自治体の首長たちは、これに該当しないだろうか。


ヴェーバーは、この講演で、むなしい興奮のから騒ぎが終った後、かえって反動と幻滅の時代が来るだろうと述べている。
遠くナチスの時代を予見しているかのようですらある。


しかし、これほどの卓見をヴェーバーが示しながら、少なくとも短期的には、その後のドイツの悲惨な歴史をあまり食い止める力になれなかったというのは、なんとも悲劇的な気がする。
(もちろん、長い目で見れば、ヴェーバーのおかげで、戦後のドイツや、諸外国の政治が良い影響をひょっとしたら受けているのかもしれないことまで否定しようとは思わないけれど。)


日本も、仮に、今の時点である程度これから先のことを予見できる人や、卓見の持ち主がいたとして、どうにか良い方向に舵を切ることはできるのだろうか。
「心情倫理」しか持たない未熟な政治家や、与党の攪乱しかしない派閥ボスが横行して、既成の政党が滅びた後に、「印象」ばかりを計算し結果を考えない「演技者」としてのデマゴーグが権力を握る時代が来るとすれば、なんとも未来は暗澹たるものだろう。


そうならぬためには、一人でも多くの人が、ヴェーバーの本やいろんな古典にもう一度耳を傾け、自分の頭で考える力を取り戻すしか道はないのかもしれない。


しかし、馬鹿げたブログや無責任な三文ジャーナリストによって、単なる与党攪乱の派閥のボスを救国の英雄だと勘違いしたり、未熟な心情倫理政治家を擁護したり、あるいはニヒリスティックな心情から今あるものをぶっ壊したいだけで特に根拠もなく「演技者」を支持する人ばかりが多数者であれば、むなしい興奮とから騒ぎしかこれからの日本を待っていないかもしれない。


それがわかっていながらも、「それにもかかわらず!」(デンノッホ!)と言える人は、いったい今の日本にどれだけ、いや、そもそもほんのわずかでも、一体いるのだろうか?