歎異抄第四条について

古典というのは、しばらくして読みなおすと、その時の状況によって、以前読んだ時はあんまり深く感じなかったことを感じさせられたり考えさせられたりすることがある。

私にとって、最近は歎異抄がそうだった。
特に以下の第四条がである。

「一 慈悲に聖道・浄土のかはりめあり。聖道の慈悲といふは、ものをあはれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもふがごとくたすけとぐること、きはめてありがたし。浄土の慈悲といふは、念仏して、いそぎ仏に成りて、大慈大悲心をもつて、おもふがごとく衆生を利益するをいふべきなり。今生に、いかにいとほし不便とおもふとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。 しかれば、念仏申すのみぞ、すゑとほりたる大慈悲心にて候ふべきと云々」

この「今生に、いかにいとほし不便とおもふとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし」という箇所が特に心に響いた。
要するに、どんなにかわいそうに気の毒に思っても、助けることが難しいので、という意味だろう。

連日のウクライナの様子を伝える報道を見ていたので、この言葉がかつてないほどしみじみそのとおりに感じられた。
おそらく親鸞も、平安末期や鎌倉初期の戦争や天災などで、そのつど人々の悲惨な様子を数多く見て、なんとかしてあげたいと思いながら、ほとんど何もできない自分に心を痛めていたのだと思う。

そのうえで、歎異抄第四条の全体の意味を考えるならば、だから何もせずに念仏だけ称えてあの世で仏になりましょう、という意味というわけではないのだと思えてきた。

たぶんこの箇所が問いかけているのは、どの方向に向かって自分は生きるのか、ということなのと思う。
短い時間の単位だけを見て絶望して生きるのか。
それとも、長いスパンの時間で考えて、自分自身が少しでも将来(あの世のいのちもひっくるめて)人を助けることができるような、智慧や慈悲の方向に向かって日々に歩むのか、
という、そういう意味の問いかけなのではないかとこの箇所が思えてきた。

何かしら悲惨な状況を見て虚無に沈むのではなく、であればこそ本当の真実の生き方をしている人(それを親鸞の場合は「仏」と呼ぶわけだけど)の方向に向かって、自分自身が歩む、ということなのだと、以前は思わなかったけれど、この頃読みなおして思うようになった。

親鸞が言うところの「念仏申し」ての暮らしというのは、永遠のいのちを展望した上で日々を一歩ずつ真実の生き方に向かって歩むということなのだろうと思われる。

私が歎異抄を一番最初に読んだのはたぶん大学生の頃で、特にこの第四条の箇所は、私にとっては最も当時はつまらなく思えた謎の箇所だった。
大事なのはこの世であり、あの世のことではないだろうにと思えたからである。
しかし、多少年を重ねて、諦念が深まってくると、であればこそいのちの方向性を問う親鸞の言葉は、とてつもなく深いなぁと感じられるようになった。