怨みに報ゆるに徳を以てせよ

ロシアのウクライナに対する侵略戦争と、その結果としてのウクライナの被害や瓦礫の山を報道で見ていて、ふと思ったことがある。
日中戦争のあとの、中国はまさに今のウクライナのような目に遭いながら、「怨みに報ゆるに徳を以てせよ」と言って、日本に対する報復や賠償請求をしなかったということは、本当にすごいことだったのだなぁということである。


今のプーチンのやり口は、昭和初期の日本と不気味なほどよく似ている。
まず、戦争を戦争と呼ばずに「特別軍事作戦」と呼び、戦争ではないとしているが、これは戦争ではなく「満州事変」や「日華事変」と呼称したあの時代の日本とよく似ている。
また、一部支配地域に傀儡政権をつくったり、分離独立をさせようとしたりするやり方は、満州国や冀東防共自治政府などとよく似ている。
国際社会から経済制裁を受けて苦しんでいるあたりもよく似ている。
そこから先が似ないことを願うばかりである。


3月半ばの時点で、ウクライナは今度の戦争によるインフラの破壊などの経済的損失が七十兆円を超えると発表していた。
その見積もりはさらに増え続けているのだろう。
また首都近郊で発覚した虐殺や暴行などのロシアの戦争犯罪による被害は、金額には換算できないものである。
日中戦争における中国の損害も、戦争が長期に及んだだけに計り知れないものがあったろうとあらためて思う。


「怨みに報ゆるに徳を以てせよ」と言って対日賠償請求を放棄したのは国民党の指導者の蒋介石だった。
ただし、蒋介石の数日前に共産党周恩来が同様の方針を発表しており、蒋介石はそれに対する部分もあったのかもしれない。
どちらが先で、背後にどのような思惑があったかはともかくとして、蒋介石周恩来が日本に対する賠償請求を放棄し、報復もしなかったのは紛れもない事実である。
その後、日本がODAなどを通じて多くの経済的・技術支援を中国に行ったことも事実だが、もし巨額の賠償請求がされていた場合は、敗戦間もない頃の日本の負担や歴史のルートもかなり違っていたであろうことを考えれば、中国の寛大な態度はやはり忘れてはならぬもののように思う。


報道を見ていると、ウクライナの人々のプーチンに対する怒りや憎しみは相当なもののようである。
それは当然のことであり、同様の立場に立てば誰もが憤らずにはおれまいと思う。
そして、まだまだ戦争はずるずると続くのかもしれないし、仮に停戦がなされても、東部地域をロシアが占領したり分離独立させれば、ずっと戦争の火種はくすぶり続けるだろう。
なので、まだそのような時期ではないのかもしれないし、これはあくまで当事者が自発的に決めるべきことで、遠方の何の苦しみもなく拱手傍観している人間が言うべきことではないかもしれないが、もし停戦や戦争終結の時を迎えるのであれば、ゼレンスキーやウクライナの指導者や人々には、できれば「怨みに報ゆるに徳を以てせよ」の精神を発揮して欲しい。
それは何も中国だけの精神ではないはずで、ロシアやウクライナにとって馴染み深いはずのトルストイもまた、「善をもって悪に報いる」ことを力説していた。


とはいえ、仮にウクライナの人々がそのような超人的寛大さを仮に発揮したとしても、今の日本がほとんどかつての中国の寛大さへの感謝も持たず忘れていることを考えれば、ウクライナにそう勧めて良いのか、またロシアはろくに感謝もしないのではないかという気もしてきて、ウクライナにそんな寛大さを勧めて良いのやら躊躇されてもくる。


しかし、今後の世界が、露中対それ以外の国際社会という新たな冷戦を迎えるという予測もある中、なるべくその新冷戦が世界滅亡につながるようなひどいものにならぬように、少しでも怨みに報いるに徳を以てし、かつての友情や受けた恩義は忘れないような、そんな世の中であって欲しいものだと思う。