「台湾の不思議な思い出」
旅行をすると、誰にでも少し不思議な思い出ができる場合がある。
あとで思い出すと、そのつど何かとても大切なことを教えられるような思い出が。
私も、かれこれ二十年ぐらい前に台湾をひとり旅した時に、こんな思い出があった。
当時、二十代前半だった私は、一週間ぐらいの予定で台湾にひとり旅に行った。
ガイドや団体が嫌いな私は、なんとかなるだろうと思って宿だけ予約して行った。
台湾は漢字で看板や標識が書いてあるし、ときどき日本語が話せる親切なお年寄りが当時はまだたくさんいて、私はぜんぜん中国語ができないけれど、不自由なく旅ができた。
コンビニに行けば美空ひばりや浜崎あゆみの歌謡曲が流れてきて、やっぱり近いところなんだなぁと思ったものだった。
当時、人生に疲れ果てて、いま思えば軽いうつ症だった私は、何もかも忘れて、何か生きるよすがや生きる喜びみたいなものを見つけたいと思っていた。
それで、最初の二日か三日は台北の故宮博物院に入り浸って、ひたすら見て回った。
夏殷周やそれよりももっと昔の良渚文化の時代の玉製品のとてつもなく美しい品々や、宋元明清の頃の美しい陶磁器など、人類の至宝とも呼ぶべき中華文明の精髄の美術品を見て回った。
しかし、それらは見ることができて良かったとは思ったものの、ずっと見ていると、あまりにも美しいものは見るとなんだか疲れるような気がしてきた。
本当は一週間ほとんど故宮博物院ばかり見て回るつもりだったのだけれど、さすがにもういいかなぁと思い、予定になかったけれど、街をぶらぶら歩くことにした。
日本円だと二百円ぐらいで、とてつもなく大きなソフトクリームを買うことができて、それを食べたり、なんだかよくわからない揚げ物や、夜市ではすっぽんのスープも六百円ぐらいで食べたりすることができて、それも楽しかった。
しかし、そうしてぶらぶら街を歩いても、なんだかすべてが虚しい気がした。
どこかしら沖縄に似ているような、なんとなくのんびりした南国風の時間が流れる台湾で、気持ちがのんびりできるかと思いきや、よく理由のわからない焦燥感が日本にいる時と同じようにつきまとっていた。
その日は朝から二二八和平公園や中正記念堂なども見に行ってみたが、あんまり何も頭に入らず、気持ちが滅入るばかりだった。
ふと公園の石段に座って、ガイドブックを見ると、鴻禧美術館という美術館が少しだけ載っていた。
行ってみたいと思ったが、どうも地下鉄の駅から随分遠い。
どうやって行ったらいいかもわからない。
ちょっと歩くようだけれど、地図を見る限り、歩いて行けないこともなさそうなので、てくてく歩いて行くことにした。
それで、台湾大学医学部のとてつもなく巨大な建物のある角を曲がって、仁愛路という大きな通りをずっと歩いて行った。
大きな道路なのだけれど、歩いている人は誰もおらず、びゅんびゅん車がすごいスピードで通るばかりだった。
はたしてこの道でいいのか、疑問に思いながら、ずっと歩いて行った。
道に迷うはずはないのだけれど、どうもなかなか着かない。
道路の左右には、大きな塀があって人が入ることができないような、何か大学やら官公庁やらどこか巨大な企業やらの施設が並んでいるばかりだった。
そうして、歩いていていくと、ふと向こうの通り側に、そこだけぽっかりと、低い平屋の日本家屋みたいなものが見えた。
あれは何だろうと不思議に思い、どうしても近寄って見てみたくなった。
しかし、横断歩道がそのあたりには全然ない。
それで、いま考えてみれば無謀だったけれど、ちょっと車がたまたま通らない時を見計らって、片側三車線ぐらいある道路を突っ走って横切って、向こう側に渡ってみた。
その日は日が照りつけて暑かったのだけれど、心臓がバクバクいって、ますます汗が流れてきた。
向こう側の道路に辿り着いて、汗を額からぬぐいながら、門柱のあたりから中をのぞいてみた。
すると、緑がたくさんあるちょっとした玄関前の庭のようなところに、中国の古い服装のような日本の作務衣のような服を着た、坊主頭のたぶん六十歳ぐらいの家の主らしいおじいさんが、たまたま庭樹に水を撒いていた。
私を見て、ちょっと驚いた様子で、「日本人か?」と話しかけてきた。
「はい」、と答えると、「ちょっとお茶でも飲んでいきなさい」と言ってくれた。
自分の家の玄関の戸をがらがらと横にあけて、家の中の誰かにお客さんが来たからお茶を出してといった意味のことを大きな声で言って、振り返って私を来るように手で招いた。
そんな申し訳ないですと、一応遠慮するふりを少しだけしたあと、のどがからからだったので、ちょっとぐらいならいいかと思い、帽子を脱いで門柱から中に入って、敷石の上を歩いて玄関に向かった。
そんなに門柱から玄関まで遠くはないのだけれど、芭蕉や檳榔樹が元気に庭に葉っぱを広げていて、そういった点では南国風なのだけれど、日本燈籠や手水鉢があり、建物もどう見ても古い日本家屋のようだった。
庭には外からではよくわからなかったけれど、ブーゲンビリヤやハイビスカスの花がたくさん咲き、そして季節外れに思われたけれど、小さな桜や牡丹の花も咲いていた。
おじいさんの後に続いて、玄関で靴を脱いで廊下に上がり、少しきしきし鳴る木の板の廊下を歩き、書斎の部屋に入った。
おじいさんは椅子に座り、私もテーブルの向い側の椅子に座るように勧められて座った。
ハンカチで汗をぬぐい帽子を置いて、部屋を見回すと、日本の昔の、あるいは中国や台湾は今もそんな感じなのだろうか、いかにも知識人の書斎という感じがした。
本棚にはぎっしりと、台湾の地理や歴史に関するらしい本が置いてあり、中にはおそらく日本に関する書物と思われる『長崎著聞集』という本が『公教遺事』や『瓊浦把燭談』といった本に混じって置いてあった。ドイツ語や英語の本も若干あった。
鳥籠があり、きれいな南国風の小さな鳥が中に三羽いて、ときどきチッチッとかすかに鳴いていた。
「私は日本から旅行に来ているのですが、あの、日本人なのですか?」と私がおそるおそる尋ねると、おじいさんはからからと笑って、「なんだ、門のところの表札を見なかったのか?」と答えた。
「はい」と私が言うと、おじいさんは腕を組んで、「ずいぶん長くここに住んでいるからね、日本人とか本省人とか外省人とか原住民とか、そういうのはどうでもいいさ」と言った。
なんだかよくわからんなぁと思い、あらためて見てみると、今どき珍しい立派な髭を口元に蓄えていて、立派な風貌のおじいさんだった。
目はわりと大きくてくっきりとした目もとだった。
名前を尋ねると、「じゃあ、老台北と呼んでくれよ、ろうたいほく、ラオタイペイ」と笑いながら言うので、あんまり名前を尋ねない方が良いのかと思った。
ちょうどその時、臙脂色のスカーフのセーラー服を着た若い女の子が、急須と湯飲み茶わんと茶菓子をお盆で持ってきてくれた。
目のぱっちりした美少女で、湯飲み茶わんの中には何か葉っぱを丸めたようなものが入っていて、急須からお湯をそそぐとそれが花のように開いた。
「ジャスミン茶ですの」とその娘さんが日本語で言ったので、ありがとうございます、と言いながら、日本人だろうか、それとも台湾の学校も制服があるみたいだから台湾の人だろうかと思い、尋ねようと思いながら、すぐにまた部屋から出て行ったので、尋ねることができなかった。
でも、無愛想な感じではなくて、とても清純な感じの、感じの良い娘さんだった。
「お孫さんですか?」と尋ねると、老台北はうなずいて、「あれの父親が帰って来ると約束したのだが、なかなか戻らなくて、ここでしばらく待っているんだよ」とのことだった。
それから、お菓子やお茶をいただきながら、いろいろ話した。
お菓子は、羊羹のような、ういろうのような、それともちょっと違うような生姜の効いた甘いお菓子だった。
堆朱のお盆と青磁のお皿もきれいだった。
日本のことを老台北からいろいろ聞かれたので、べつだん誰でも知ってそうなことを答えると、ときどき目を瞠って驚いていた。
日本のどこから来たのか?と聞かれたので、「福岡」と答えると、「ああ、明石さんの出身地だな」と言うので、明石元二郎かと尋ねると、「そうそう、明石大将」と言っていた。
「明石さんも、結局台湾に骨を埋めて、台湾の土になりたかったんだろうなぁ」とも言っていた。ロシア革命で革命派を支援していかに明石さんが活躍したか、みたいな話もしていた。
私が明石元二郎の孫が天皇陛下の学生時代の御学友でよく皇室関連の番組に出ていると言ったら驚いていた。
それで、私が「台湾だと日本はわりと今でも好まれているみたいですね。明石元二郎とかが良いことをしたんでしょうか?」と尋ねてみると、老台北はうーんと首をひねって、考え込んだ。
「個々の人で台湾の土になりたいと思って努めた人はいたかもしれないが、総じて言えば、日本人は台湾で貴族のように傲慢に振る舞っていたし、それを当然と思っていた。
台湾の人はおおらかで優しいから、わりと日本の良いところばかりを見て思い出してくれるけれど、そんなに良いものでもなかったと思うがね」
と、深い諦めのような表情で言った。
続けて私が、「その後に来た蒋介石があまりにもひどかったので、その前の日本が相対的に良く見えた、美化されたということなんでしょうか?」と尋ねると、
老台北は、「うーん、蒋介石は、あれも初めはまじめな良い人物だったのだけれど、いろんな流れがあったからなぁ。あれはあれで気の毒な人間だよ」と腕を組みながらしみじみと言った。
なるほど、と相槌を打った上で、最近は中国が軍事的に勢力を拡大しているようで、日本の中には台湾を守らねばならないと主張している人々もいるけれど、台湾に住んでいる老台北から見て、そういう意見はどう思いますか?と尋ねてみた。
すると、老台北は、
「台湾人というのは、本当に芯が強くてしっかりしていてね、オランダや鄭氏や清や日本や蒋介石の支配が今まであったけれど、台湾の人々はしっかり生き続けてきた。
日本が台湾を守るなんてことはおこがましいことで、今の大陸の共産党であれ、どんなに強い相手が力を振るって来ても、台湾の人々はしっかりとしなやかに生き続けるし、台湾のことは台湾の人々が決めていくさ。」
と言った。
そんな会話のはしばしが今も不思議と心に残っている。
それと、話の順序は忘れたけれど、老台北が言うには、日本はそんなに台湾の人たちに対して良かったわけではなく、1951年のサンフランシスコ講和条約の時に、日本に住んでいた台湾出身者は、それまでは日本国籍があったのだが選択の余地なく日本国籍を失った、イギリスなどの他の国は独立した植民地出身者にはどちらの国籍を選ぶか選択の自由を与えたのに、日本は一切それもなかった、台湾の人々には本当に日本はそういったところでは冷淡だった、ということを言っていて、私ははじめて知ったので、考えさせられた。
また、イギリスやアメリカが植民地に議会を認めたのに、とうとう日本は台湾に議会設置を認めなかった、ということも言っていた。
そうした話を聞きながら、老台北ははたして日本人なのか、それとも台湾の人なのか、結局その時は私にはよくわからなかった。
私が一応少しだけ漢詩を知っていて、誰が好きかと尋ねられたので李煜や王士禎や納蘭性徳が好きだと言うととても喜んで、私にはよくわからなかったがたぶんそれらの詩人の詩を、とても流暢な中国語の発音で暗唱してくれた。
故宮博物院でいろいろ見てきた話もすると、あれも見たかこれも見たか、あれはなかなか見ごたえがある、とうれしそうに話していた。
しかし、その中で、「本当の宝は人間であって、どんなに美しい陶器や玉も、一人の人間の大切さや尊さには到底及ばない。しばしばその当たり前のことを忘れて本末転倒になりがちで、美術品よりも人間が大切とわかっている統治者の時は国がよく治まり、美術品の方が人間よりも値打ちがあるように勘違いした為政者の時は国が乱れたものだった」と老台北は言った。
それから、鴻禧美術館はここから近いのかと尋ねると、すぐ近くだという話になり、しかしそろそろ閉まる時間だから急いだほうがいいかもしれないと老台北に言われて、席を立って帰ることにした。
「また遊びに来なさい」と老台北は言ってくれた。
挨拶し、門を出ていくと、セーラー服の美少女が後ろから「もし」と声をかけて走ってきた。
驚いて立ち止まって振り返ると、私が帽子を席の近くに置き忘れていたそうで、帽子を渡してくれた。
そして、その時に、その娘さんが私に、「あの、いろいろ大変なこともあるかもしれませんけれど、生きていることは何にもかえがたく尊いことですわ」と言った。
ちょっと面くらいながら、ありがとうございます、とだけ言って帽子を受け取り、私は立ち去った。
それからすぐに鴻禧美術館に辿り着き、閉館ニ十分前だそうだったけれど、急いで見て回った。
いろいろ美しい嗅ぎタバコ入れや阿片のキセルなどはあったけれど、故宮博物院の方がそれはやっぱり大規模で、わざわざ来なくても良かったかなぁとも思った。
入り口の受付のおじいさんが日本語ができる人で、間に合って良かったですね、と話しかけてきたので、本当はもっと早く来る予定が、すぐそこにある日本風の家屋が気になって立ち寄ったら長話になりまして、といった話をした。
すると、その受付の老人はけげんな顔をして、「あそこに立ち寄ったのですか・・・」という当惑した表情だった。
でも、それ以上何も聞かない方が良い気がして、詳しくは何も話さず、その美術館を後にした。
それからさらに二日ぐらい台湾を旅行し、淡水という台北からちょっと離れた町などをぶらぶら歩いたりして、それから日本に帰った。
理由はよくわからないが、どういうわけかだいぶうつ症みたいな症状が回復し、また生きていこうという気になった。
日本に帰ってからもたまに、あの不思議な日本家屋と老台北のことを思い出した。
故宮博物院などの美術品より、私にとっては老台北の方が印象深かった。
そこでとどまれば、ただ単に旅先の良い思い出だったのだけれど、それから十三年経った、今から十年前のある時に、驚くべき話を聞いた。
たまたま他大学で霧社事件などの台湾の歴史を研究しているという私と同い年のXさんと、ある研究会で知り合った。
Xさんに、その日本家屋での思い出の話をしてみた。
Xさんは、仁愛路にそんな建物ありますかね?といった反応で、ぜんぜんその日本家屋のことは知らなかったのだけれど、それから一週間後ぐらいに長文のメールで調べたことを教えてくれた。
そのメールによれば、その日本家屋は今でもたしかに台北の仁愛路にあること、しかし通常は門は閉まっていて中に入ることはできず、無人であること。
台北の一等地である仁愛路に面した土地に、なぜそこだけ忽然と日本家屋が残っているかはしばしば台湾の人にとっても謎とされているようで、都市伝説として以下の話がネットで調べると中国語のいくつかのサイトに載っていたとのこと。
(として、三つほどURLが載せてあったが、私は中国語は読めないので、よくわからなかった。しかし、あの日本家屋らしき写真がそのサイトにも載っていた。)
その日本家屋の持ち主はA大佐という人物だった。
A大佐は日本陸軍の情報将校で、若い時の蒋介石が日本に留学した時に蒋介石の世話をした関係で、蒋介石とは昵懇だった。
A大佐は台湾総督府に長く勤務していたが、台湾の議会設置請願運動に共鳴し、早く退役し隠居した。
また満州事変や日中戦争に批判的な立場で特高警察の監視を受けていた。
A大佐は上記のとおり変わった人物だが大の台湾好きで、その教育のせいかその一人息子も台湾好きで、親子とも台湾の民俗学を研究し、息子は台湾の原住民の阿美族の女性と結婚した。
しかし、その女性は出産で死亡し、A大佐は息子と孫娘と三人で暮らしていた。
息子が太平洋戦争に徴兵されて行くことになり、敗戦後、息子はビルマで戦犯容疑で逮捕された。
日本の敗戦後、蒋介石の国民党軍が台湾にやって来て、日本人は引き揚げることになったが、A大佐は息子の帰りを待ちたいと言い、蒋介石は特別に許可したので、引き続きA大佐と孫娘はその家に留まり続けた。
しかし、蒋介石の特別の許可をよく理解していない国民党軍の一部が、二二八事件の時に誤ってその家屋に押し入り、A大佐も孫娘も無残に殺された。
また、帰りを待たれていた息子も、無実の罪でちょうどその頃BC級戦犯として死刑執行された。
蒋介石は慟哭し、その家屋の保存を命じた。
その後、蒋経国の時代に何度か開発が命じられ、その日本家屋は取り壊されそうになったが、そのたびに工事現場に事故が起こり、工事関係者の怪我や死亡が相次ぎ、宙ぶらりんの状態となった。
李登輝時代にも同様のことが相次ぎ、ついに開発は棚上げとなった。
一等地にもかかわらず、今もって開発されず、そのままその日本家屋は残っている・・・。
とのことだった。
私は何か、狐につままれたような、狸に化かされたような、不思議な気持ちになった。
それから、ずっと台湾に行って、もう一度きちんと調べたいと思っている。
だが、せっかく台湾に旅行に行く計画も立てていた一昨年、コロナウイルスのために断念せざるを得なくなり、それがずっと今まで続いている。
しかし、仮に行ったとしても、再び老台北やあの娘さんには会えないのかもしれない。
なので、もう行かなくてもいい、行かない方がいいとも思う。
しかし、いま一度、彼らに会いたい気がする。
人間は玉や陶磁器よりもはるかに価値があり、無事に平和に自由に生きているだけでどれだけありがたいことか。
また、それ以上の言葉ではうまく言い表せない、人が生きるとは何かを教えてくれた、老台北とあの娘さんに、いつかもう一度会いたい。
そしてお礼を言いたい。
そう今も強く願っている。
それで、最近少しずつ中国語を勉強している。
今度台湾に行った時は、人と日本語だけではなく中国語で言葉を交わしたいと思う。
(以上の話は、もちろんエイプリル・フールの嘘です。この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。)