自分の心ではなく知恵の言葉を頼りとすること

箴言は知恵の宝庫だけれど、今日はあらためて、以下の言葉になるほどーっと思った。


Those who trust in themselves are fools,
but those who walk in wisdom are kept safe.
(Proverbs 28.26 NIV)


自分の心に依り頼む者は愚か者だ。知恵によって歩む人は救われる。
箴言 第二十八章第二十六節 新共同訳)


自分の心を信頼する者は愚か者である。
知恵によって歩む者は助かる。
箴言 第二十八章第二十六節 自分訳)


ボテアハ・ベリボー・フー・ヘスィール・ヴェホレフ・ベホフマー・フー・イマレット


自分の心ではなく、知恵を頼りとせよ。
箴言は、そう明確に説いている。


仏教にも似たことが言われていることがある。


蓮如上人の息子の実如上人の言葉として、『御一代聞書』には以下の言葉がある。


一 実如上人、さいさい仰せられ候ふ。仏法のこと、わがこころにまかせずたしなめと御掟なり。こころにまかせては、さてなり。すなはちこころにまかせずたしなむ心は他力なり。


訳すならば、


「実如上人は、繰り返し繰り返しおっしゃられました。仏法のことは、自分の心に任すことなく、慎みなさいというのが、蓮如上人の御心構えでした。自分の心に任せていては、駄目です。そういうわけで、自分の心に任せず、慎みをもって生きる心が、本願力を仰いで生きる生き方です。」


といったところだろう。


いつの世もそうかもしれないが、特に現代では、「自分の心」がとかく大事にされ、第一とされるようである。


それはそれで大切な場合もあるかもしれないが、人生を渡る上において、「自分の心に任せよう」と思うと、えてして、ただ自分のエゴや欲望を肯定することになりがちかもしれない。


あんまり自分の心を見つめたり、自分の心をひねっても、それが大事な局面もあれば、かえってますます迷ってしまう場合もあると思う。


凡夫の心というのは、だいたい自分勝手で出鱈目なものだから、あんまり頼りとしない方がいいのかもしれない。
心ほどあてにならず、ころころ変わるものはないのだから。


なので、自分の心をあまりあてにせず、知恵に従って生きることが、人生においては本当はとても大事なのかもしれない。


それでは、知恵を頼りとし、知恵に従うとは、具体的にどういうことだろう。


一つの方法としては、自分の心ではなく、聖書や仏典などの知恵を仰ぐということだと思う。


キリスト教で言えば、まず第一には、福音書をよくよく読むことが、知恵によって歩むということになるのだと思う。
仏教でいえば、ダンマパダやパーリ仏典、あるいは無量寿経観無量寿経などの大乗仏典を、謙虚に丹念に読むこと、あるいは親鸞聖人や蓮如上人などの言葉を読むことかもしれない。


そこには、自分の頭よりははるかに深い知恵が湛えられている。


自分の心に任せず、そうした知恵の言葉に触れて、よく味わっていくことが、人生の歩みを確かにしていくのだと思う。


あるいは、自分の心を頼りとせず、知恵を頼りとするということは、その時その時の気づきを大切にすることや、欲望ではなく良心の声に耳を傾けることかもしれない。
しかし、心の深い水を汲みとるのは、賢者であってはじめてよくできることだろう。
これらもとても大切なことだとは思うが、聖典に触れることがあっての上のことだと思う。


山鹿素行は、線を引くのに定規が必要なように、人が生きるには四書五経という基準が必要だということを『配書残筆』で書いていたのを高校生の頃に読んで感心した記憶がある。
自分の手に任せてゆがんだ線を書くより、定規できちんと線を引いた方が良いように、仏典や聖書や六経などによって、そのつど自分の心を頼りとせず知恵の言葉を頼りとする方が、人生も良いのかもしれない。