先日、たまたま、「ふゆねこ」という絵本を読んだ。
かわいい子ども向けの絵本で、ある母親を亡くした女の子のところに、白い猫がやって来て、その子のお母さんに頼まれたと言って、網掛けの手袋をその子の目の前で編んでくれる。
という物語である。
もちろん、現実にはありえない架空の物語だけれど、胸を打つものがあった。
どこかで聞いた話だなぁと思ったが、なぜかわからなかった。
と、その話を母にしたら、私の伯母がそうだったのだと思い出した。
私の伯母は、美しい人だったが、若い頃から病気で苦しんで、早くに亡くなった。
伯母の娘は一人で、つまり私のいとこだけれど、伯母が亡くなる少し前に、そのいとこのためのマフラーを伯母は編みかけていた。
その年の冬ぐらいから具合が悪くなり、翌年の夏に亡くなったので、マフラーは未完のままだったけれど、うちの母がその年の秋に代わりに完成させて、いとこに贈ったのだった。
当時、いとこは小学五年で、私が小学二年だった。
まだ小さくてよくわからなかったけれど、どれほどかいとこは悲しかったろうと思うし、伯母はどれほど心残りだったろうと思う。
そのいとこの子どもが、ちょうど今小学五年で、いとこもその子もいたって健康で、屈託なく幸せそうにしているのを見ると、私もうれしいけれど、さぞかし伯母も浄土か天国か、そういったところから見て安心しているのではないかと思う。
伯母は格別何かを信仰していたわけではなかったようだけれど、学生時代の友人の縁で聖書をもらったか買うかしていて、うちの母もその縁でもらっていて、元から分厚い大きな聖書がうちにあった。
また、うちは宗派は浄土真宗だったので、伯母が亡くなった後、うちの母も勤行集を買って、命日には阿弥陀経などを唱えていたのを当時から覚えている。
今思えば、ずっとその後、人生の悩みや苦しみがあった時に、聖書を読んだり、阿弥陀経を読んだりしたのは、元々うちにあったからだったと思う。
なぜうちに元々あったかというと、伯母がいてくれたからこそだったのだと思う。
また、いとこの子どもに、時折絵本をプレゼントしているのだけれど、そのためにせっせと私や母も絵本を探して読んで、それが自分自身にとってとても大きな楽しみや慰めや気づきになっていることを思うと、縁というのは不思議なものだと思う。
ふと今日はそんなことを思い出した。