義の道は良きもの

箴言を読んでいると、一見当たり前のようで、そうであるからこそ、味わい深い言葉が多々ある。
この言葉も、とても深いと思う。


Then you will understand what is right and just
and fair—every good path
(Proverbs 2.9)
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そのとき、あなたは、ついに正義と公正、公平とすべての良い道を悟る。
箴言 第二章 第九節 口語訳)


また、あなたは悟るであろう
正義と裁きと公平はすべて幸いに導く、と。
箴言 第二章 第九節 新共同訳)


その時、あなたは理解する。
義を、そして正義を、公平を。
これらすべての良き道を。
箴言 第二章 第九節 自分訳)


アズ・タヴィン・ツェデック・ウミシュパット・ウメーシャリーム・コル・マーガル・トーヴ


この一節の中の「その時」というのは、二章のこの節の前後において言われる、神が知恵を授けてくれる時、また適切な裁きを行い見守ってくれる時、を指しているのだろう。


ここで味わい深いのは、「義」の道は、そのものが「良き道」(マーガル・トーヴ)だと言われていることだと思う。


義に生きるのは、良い道のりだったと、知恵の眼が開かれ、何かしらの物事が見えた時に、わかる。


そう箴言は断言する。


世の中や人生というのは、しばしば、単純にはすぐに結果が生じない。
自分自身もそうだし、他の人々を見ていても、悪人が栄えたり、せっかく一時的に退けられても、また短期間で復活して再び栄華を極め横行する場合もある。


そういう時は、はたして義とは何の意味があるのか、義に生きるのは無意味ではないのかという気がしてくる。
義や正義や公正に生きようとするよりは、己のことだけを考え、利欲に生きる方が、世渡りにおいては報われるような気もしてくる。


しかし、それはあくまで、「その時」の前なのだろう。


「その時」がいつ来るかはわからないが、必ず「その時」は来る。
箴言はそう断言している。


おそらく、義に生きることの最大の良い点は、自らが後悔せずに済むということなのかもしれない。
そして、世が愚かな方向にいったとしても、自らはきちんと正しいことを前々から述べてきたし、警告も発してきた、悔いはない、やれるだけのことはやった、と思えることかもしれない。


しかし、往々にして、愚か者ほど後悔はしないものだし、義人ほど、最善を尽くしつつも、なおさらに最善を尽くせたのではないかと自らを責めるものなのかもしれない。


そして、報われるかどうかというと、世間的な基準で義人が報われるとは必ずしも限らないというのが、本当にこの世のわかりにくいところなのだと思う。


だが、義は「良き道」というのは、そうであればこそ、深く心にしみいる言葉だと思う。
義人にとっては、他の外形的なことがどうであろうと関係なく、この言葉は、おのずと心に感得されるものなのだと思う。


ちなみに、パーリ語でも、道は「マッガ」という。かの八正道も、アリヤ・アッタンギヤ・マッガ(聖なる八つの道)である。
マーガルとマッガでなんとなく響きが似ているのも面白い。


おそらく、良い道というのは、その道そのものが、良いものなのだと思う。