茨を除くこと

箴言を読んでいて、なるほどと思う一節があった。


The way of the sluggard is blocked with thorns,
but the path of the upright is a highway.
(Proverbs 15.19)


なまけ者の道には、いばらがはえしげり、
正しい者の道は平らかである。
箴言 第十五章 第十九節 口語訳)


怠け者の道は茨にふさがれる。
正しい人の道は開かれている。
箴言 第十五章 第十九節 新共同訳)


怠け者の道は、茨の垣根のようである。
しかし、義人たちの道は、はっきりとした道である。
箴言 第十五章 第十九節 自分訳)


デレフ・アツェル・キムスハット・ハーデク・ヴェオラフ・イェシャリーム・セルラー


なるほど、と思う。


この茨とは、どういう意味だろう。


マルコによる福音書の第四章第十八、十九節には、以下のように書かれている。


「また、ほかの人たちは茨の中に蒔かれるものである。この人たちは御言葉を聞くが、
この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない。」


つまり、良き地に蒔かれる種(素直に神の言葉を受け入れる人)と異なり、神の言葉を聴いても、いろんな誘惑や欲望、つまり煩悩がその言葉を覆ってしまうことを、イエスは茨とたとえている。


この箴言の一節の茨も、煩悩のことだと考えると、明晰にわかると思う。


自分を振り返ってみると、聖書や仏典を読んでも、きちんと正確に受けとめて実行してきたか、甚だ反省させられる。
煩悩ばかり、気が散ってばかりと反省させられる。


茨を切り開き、良き地となるように自分の煩悩を見つめ、なるべく心を清めてこそ、人生の道もまっすぐになるのだろう。


人生というのは、とかく思い通りにはならず、長く曲がりくねったものである。
そうであればこそ、自分から茨や雑草をつくったりしないように、よく注意すべきなのだろう。
自分の道や畑を耕し整備するのは、基本的には自分の責任なのだろう。
種は神や仏が授けてくれるとしても、その育つ地や道は、自分が常に整備していくものなのだと思う。