水の上にパンを投げよ

内村鑑三の「伝道の書」の注解を読んでいたら、目からウロコのことが書いてあった。


「水の上にパンを投げよ」


ということである。


「伝道の書」つまり「コヘレトの言葉」は、箴言とともにソロモンの作だとされている旧約聖書の中の部分で、やたらと世の中むなしいという言葉ばかりが続く、あんまり聖書らしからぬ箇所である。


昔は共感したものだが、今読むとなんともつまらぬ繰り言のような気がして、これに浅薄にかぶれてさほどの苦労もないのに世の中むなしいなどと言っている人間を見ると、般若心経に下手にかぶれている人間を見るのと同じぐらいむかっ腹が立って仕方がないのだけれど、内村鑑三の注解によって、はじめて目からウロコな気がした。


内村鑑三が言うには、「伝道の書」(コレヘトの言葉)は、人の言葉と神の言葉が混じっているという。
最高の善を求めていろいろ試してみるが、ことごとくむなしいと感じ、中庸の知恵という陳腐な知恵に落ち着こうとするあたりは、ことごとく人の知恵であって、あまり大したことがないと内村は一刀両断する。


そのうえで、内村は、「水の上にパンをまけ」という十一章一節の言葉を重視して、これこそが、あまたのむなしい遍歴を繰り返し、中庸の陳腐な知恵にも落着けくことができなかったコヘレトが到達した本当の目覚めだという。


つまり、己の身を捨てて施しをし続けること、現実に効果がないと知りながら愛し続けることこそ、唯一むなしくない行為だとしてこの書に書かれているのだとする。


その十一章一節の箇所を英訳や和訳で見ると以下のようになっていた。


Ship your grain across the sea;
after many days you may receive a return.
(Ecclesiastes 11.1 NIV)


Cast thy bread upon the waters: for thou shalt find it after many days
(Ecclesiastes 11.1 KJV)


あなたのパンを水の上に投げよ、多くの日の後、あなたはそれを得るからである。
(伝道の書 第十一章第一節 口語訳)


あなたのパンを水に浮かべて流すがよい。月日がたってから、それを見いだすだろう。
(コヘレトの言葉 第十一章第一節 新共同訳)


口語訳やKJVが内村の訳に一番近いようである。


投げる、あるいは水に浮かべて流す、と訳されているヘブライ語は、šal•laḥ(シャッラーフ)という言葉のようだ。
これは、他の聖書の箇所の訳だと、送りだすとか行かせるという意味もあるようで、投げるも水に浮かべて流すも、たぶんどちらも正しい訳なのだろう。


ただ、よりアクティブな印象を受けるのは、投げるという訳の方なのかもしれない。


「水の上にパンを投げよ」


おそらくは、この精神で、田中正造や、その他多くの、その時代は不遇だった人は生きたのだろう。
現実の効果や即効性よりも、いつか芽を出すと信じて、種を蒔くことに尽力したのだと思う。


「コヘレトの言葉」を読んでも、この一文の精神に気付かず、読み過して、ただむなしいと言っている人は、論語読みの論語知らず、コヘレトの言葉読みのコヘレトの言葉知らずなのだと思う。