朗らかな心には人生は宴

箴言を読んでたら、こんな言葉も箴言にあるのかとあらためて驚くものがあった。
しかめつらしい学者からは出てこない、明るい言葉である。


All the days of the oppressed are wretched,
but the cheerful heart has a continual feast.
(Proverbs 15.15)


悩んでいる者の日々はことごとくつらく、
心の楽しい人は常に宴会をもつ。
箴言 第十五章第十五節 口語訳)


貧しい人の一生は災いが多いが
心が朗らかなら、常に宴会にひとしい。
箴言 第十五章第十五節 新共同訳)


悩み苦しんでいる人々のすべての日々は悪いものだ。
しかし、朗らかな心にはすべての日々はずっと続く宴会である。
箴言 第十五章第十五節 自分訳)


コル・イェメー・アニー・ライーム・ヴェトーヴ・レヴ・ミシュテー・タミード


人生は宴会。
なんと明るい言葉だろう。


ただし、心が朗らかな人にとっては、である。


内村鑑三が、「万物悉く可なり」と題して、ロバート・ブラウニングの詩を以下のように訳していた。

「年は春なり、
日は朝なり、
朝は七時なり、
山側は露に輝き、
雲雀(ひばり)は空に舞ひ、
蝸牛(かたつむり)は叢林(くさむら)に戯る、
神は天に在り、
此世の万物可なり」

                  

なるほど、信仰によって達観した人の境地はこのようなものであり、「この世の万物可なり」つまり「この世におけるすべてのものごとはOK」という境地になれば、悠然として人生の悉くが宴のように思えるのかもしれない。


そういえば、福音書を読んでいると、イエスはよく人々と宴を楽しんでいる。
朗らかに宴を楽しんだのが、イエスの性格の特徴の一つだったと福音書を読んでいるとすぐに気付かされる。


宴というのは、別にどんちゃん騒ぎをするということではなくて、人とともにいるひとときをよろこび楽しむことなのだと思う。
一期一会のお茶の席も宴と言えるかもしれないし、俳諧連歌の席も宴だろう。


心に愛があれば、人生はそのようなものの連続なのかもしれない。


そして、そのような愛は、やはり何か神的なものとつながって、はじめてゆるぎないものになるのかもしれない。


朗らかな心にとって人生は宴。
これは実に深い、人生の極意のような一節と思う。