天は愛する者にこそ試練を与える

箴言を読んでいて、しばしその前に歎じざるを得ない一節があった。


because the Lord disciplines those he loves,
as a father the son he delights in.
(Proverbs 3.12)


主は、愛する者を、戒められるからである、
あたかも父がその愛する子を戒めるように。
箴言 第三章 第十二節 口語訳)


かわいい息子を懲らしめる父のように
主は愛する者を懲らしめられる。
箴言 第三章 第十二節 新共同訳)


なぜなら、主は愛するところのものを叱るのだから。
息子を愛する父のように。
箴言 第三章 第十二節 自分訳)


キー・エット・アシェル・イェエハヴ・アドナイ・ヨヒーアハ・ウヘアヴ・エット・ベン・イルツェー


世の中、自分はなんだかあんまり人生がうまくいっていないような気がする時もある。


そのように思うのは、自分が愚かなためだろうが、凡夫のならいとして、このような思いは誰でも多かれ少なかれ時折は思うものだろう。


そういう時に、世の中もっと大変な人もいるのだから、みたいなことを他の人から言われることもあって、その時はそうだなぁと思うが、はてさて、下みればきりなし、しかし上を見てもきりもなし。


この人がどうしてと思うほどつらい目にあって苦労している人もいる一方で、逆の意味でこの人がどうしてと思うようにさほどの苦労もなさそうに見える人もいる。


そういう時に、この箴言を見ると、あぁ、そうだったのか〜っと納得する気がする。


神は愛する人をこそ、試練を与えて、より高めようとする。


これは、多くの英雄的な生涯を送った人々や、義人の生涯を見ると、とてもよくわかる気がする。


一方、わりと恵まれていて、さほどの心の深みに至ることもなく、浅い生涯を生きる人は、逆説的に神にさほど愛されていないということになるのかもしれない。


孟子にも似たような意味の言葉がある。


「天の将に大任をこの人に降さんとするや、必ずまずその心志を苦しめ、その筋骨を労し、その体膚を餓えしめ、その身を空乏し、行うことその為すところを払乱せしむ。
心を動かし、性を忍び、そのあたわざる所を曾益せしむる所以なり。」


つまり、天はその人に大きな任務や使命を与えようとする時は、前もって試練や苦難を与えて訓練し、その力を高める、という意味だが、これも多くの人々の伝記などを読んでいると、よくわかる気がする。


リンカーンは若い頃は自分がつくったわけでもない借金の返済に始終苦しみ続けた。
ベートーヴェンも、そして現代では佐村河内守さんが、難聴に苦しみつつ作曲に携わっている。
ヘレンケラーや野口英世はハンディキャップを乗り越えて大きなことを成し遂げた。


彼らは、一見逆説的な表現になってしまうが、別に逆説でもなんでもなく、この箴言的な意味で、深く神に愛されていたのだろうと、愛されているのだろうと思う。


自分はそうした偉人に比べれば、ものの数にもならない程度の苦労しかなく、実に恵まれていることも多い。
しかし、それでも凡夫のならいで、少々の自分の苦しみに不平不満と落胆と絶望が、しばしば心に広がる。
そうした時には、この箴言を口ずさみ、自分は神から愛されていればこそ、人生の前半において自分なりのこれらの苦労があったのだということを、忘れないようにしたいと思う。


そして、日常のささやかなことの中に、何か天からの叱りやお褒めを見出すことも大切なのかもしれない。


先日、一か月半ほど前、左首肩を寝違えて数日間身動きもとれないぐらいに苦しんで七転八倒したのが、そのおかげで、二十年ぶりぐらいにまた聖書を丹念に読むようになった。
これも神のお叱りであり、自分なりにそのお叱りに素直にすぐに応答できたということなのかもしれない。
そのおかげで、どれほどまた人生の喜びや楽しみが増し深まったかわからない。


人生の見えざる手の向こうに、アッバと親しく呼びかけることができる、父なる神がいるとイエス・キリストのように思うことができれば、この人生は無意味な苦しみではなく、良き学びの日々となるのだろう。
この箴言を読んでいると、そんなことを考えさせられる。