内村鑑三 「世界伝道の精神」

内村鑑三 「世界伝道の精神」


一九二八年 八月十七日 夜 札幌独立基督教会において


私ども神の恩恵にあずからんと欲して、まず考うべきは神はいかにして私どもを愛し給ふか、その事を知る事であります。


「それ神はその一子を賜うほどに世を愛し給へり」とイエスはいい給いました。
ふるい訳には「世の人」とありますが、それは誤訳でありまして、「世」というが本当であります。
世であります、全世界であります、全人類であります。
神は全人類を愛してその一子を賜うたのであります。
全人類の救いのためにユダヤ人を選び給うたのであります。
全人類のためにこの人、かの人を選び給うたのであります。
全人類のために私ども各自を選び給うたのであります。
ゆえに、私どもが神の恩恵にあずからんと欲すれば、私どもは神と愛を同じうし、神に傚うて全人類を愛さねばなりません。
伝道の必要はここにあります。
恩恵の全世界に下らんことを祈り、そのために努力して、神の恩恵が私どもに下るのであります。
その事を為さないで、神の恩恵のまず第一に私どもの上に降らんことを祈り、私どもの家庭、私どもの教会、私どもの国に降らんことを祈りて、神の最大の恩恵は私どもに下らないのであります。


人類の単一性(Solidarity)は聖書・科学、二つながらの認むる所であります。
人類を離れて国家あるなく個人あるなしであります。
ゆえに、人類全体を善くなすにあらざれば、私ども各自が善く成る事ができないのであります。
まことに迂遠のみちでありますが、こうあるが故にやむを得ません。
ここにおいてか支那人やアフリカ人の事は私の事であります。
私はアフリカのネグローにつき、カインがアベルについていうた如くに「我知らず我れあに我が兄弟の守者(まもりて)ならんや」という事ができないのであります。
全世界の人々がまことにわが肉わが骨であります。
そして、私どもが全世界の人々と共に恩恵にあずからんと欲して、真の恩恵にあずかる事ができるのであります。


この事を考えて、私どもに神の恩恵が私どもが欲(おも)うように降らない事がよくわかります。
私どもが自分のために祈り求ることがあまりに多くして、全世界のためにする事があまりにすくないからであります。
神は全世界を目的にその一子を遣し給いしに、私どもはつねに「私に、私に、私に」と祈り求めているのであります。
隣邦の支那人の如き、措いて顧みないのであります。
アフリカ伝道に参加せよと勧むれば、月か火星の伝道を勧めらるるように思うのであります。
しかし、そういう心の状態にありて、聖霊は私どもの心に降りません。
キリストは使徒等を遣すに世界伝道を目的に遣されました。
「汝等往きて万国の人を弟子となし」との命令を下し給いました。
私どもにも同じ命令が下るのであります。
そして、この命令に従わないで、神の恩恵が私どもに降らないのは怪むに足りません。


そもそも教会は何のためでありますか。
私ども各自に幸福を求めんためでありますか。
神の光を世に輝かし、万民をしてともに幸福にあずからしめんがためでありませんか。
ゆえに、盛んなる教会とは、他の教会を排して自分の教会を盛んにせんとする教会ではありません。
最も広く最も深く全世界を益せんと欲する教会であります。
個人もまた同じであります。
自分に求むる所がすくなくなればなるほど、その人は神に恵まるるのであります。
自分の勢力を張らんと欲することほど自分を小ならしむるみちはありません。
キリストが世の罪を担いて十字架に上り給いしが如くに、私どももまた全人類の患難(なやみ)を自分の患難となし、自分が恵まれんと欲するその心をもって隣人、隣邦、および全人類のために祈りかつ尽すべきであります。
これが自分と自分の教会とが神の恩恵にあずかる唯一のみちであると思います。


「我はギリシヤ人にも夷人にも智き者にも愚なる者にも負債あり。この故に我はロマに在る汝らにも福音を宣伝へんことを頻りに願ふなり 」( ロマ書 一の 十 四 )。